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「久尓辛王」の版間の差分

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日本語では「久爾辛王」とも記述される。なお「[[wikt:爾|爾]]」は「[[wikt:尓|尓]]」の[[正字体]]である([[wikt:尓]]参照)。
日本語では「久爾辛王」とも記述される。なお「[[wikt:爾|爾]]」は「[[wikt:尓|尓]]」の[[正字体]]である([[wikt:尓]]参照)。


『[[宋書]]』百済伝では、[[宋 (南朝)|宋]]の[[文帝 (南朝宋)|太祖]]が[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]2年([[425年]])に百済王に対して年々の忠節を顕彰したことと、その後毎年朝貢してきたことを記す。ただ、元嘉7年([[430年]])に「余{{lang|ko|毗}}({{lang|ko|[[毘有王|毗有王]]}})に余映(腆支王)の爵号の継承を許した」とあるので、宋の側では久尓辛王を認識していなかったと思われる。
『[[宋書]]』百済伝では、[[宋 (南朝)|宋]]の[[文帝 (南朝宋)|太祖]]が[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]2年([[425年]])に百済王に対して年々の忠節を顕彰したことと、その後毎年朝貢してきたことを記す。ただ、元嘉7年([[430年]])に「余{{lang|ko|毗}}({{lang|ko|[[毗有王]]}})に余映(腆支王)の爵号の継承を許した」とあるので、宋の側では久尓辛王を認識していなかったと思われる。


『[[日本書紀]]』によれば、[[応神天皇]]25年(294年→[[414年]])に即位。王が若かったので[[木羅斤資]](もくらこんし)の子[[木満致]](もくまんち)が国政を行ったとある。この木満致を[[蘇我氏]]の祖先[[蘇我満智]]とする説があるが、類推の域を出ない。また、木羅斤資を百済の将とするが、[[倭国]]が派遣した将軍(倭人)とも[[任那]]系とも考えられ不明な点が多い。
『[[日本書紀]]』によれば、[[応神天皇]]25年(294年→[[414年]])に即位。王が若かったので[[木羅斤資]](もくらこんし)の子[[木満致]](もくまんち)が国政を行ったとある。この木満致を[[蘇我氏]]の祖先[[蘇我満智]]とする説があるが、類推の域を出ない。また、木羅斤資を百済の将とするが、[[倭国]]が派遣した将軍(倭人)とも[[任那]]系とも考えられ不明な点が多い。

2020年7月5日 (日) 05:29時点における版

久尓辛王
各種表記
ハングル 구이신왕
漢字 久爾辛王
発音 クイシンワン
日本語読み: くにしんおう
ローマ字 Guisin-wang
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久尓辛王(くにしんおう、生年不詳 - 427年)は百済の第19代の王(在位:420年 - 427年)であり、先代の腆支王の長男。『三国史記』はは伝えておらず、420年3月に先王の死去に伴い即位したこと、427年12月に死去したことを伝えるのみで、治績記事は残っていない。

日本語では「久爾辛王」とも記述される。なお「」は「」の正字体である(wikt:尓参照)。

宋書』百済伝では、太祖元嘉2年(425年)に百済王に対して年々の忠節を顕彰したことと、その後毎年朝貢してきたことを記す。ただ、元嘉7年(430年)に「余毗有王)に余映(腆支王)の爵号の継承を許した」とあるので、宋の側では久尓辛王を認識していなかったと思われる。

日本書紀』によれば、応神天皇25年(294年→414年)に即位。王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある。この木満致を蘇我氏の祖先蘇我満智とする説があるが、類推の域を出ない。また、木羅斤資を百済の将とするが、倭国が派遣した将軍(倭人)とも任那系とも考えられ不明な点が多い。

参考文献