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「永井尚佐」の版間の差分

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== 経歴 ==
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[[旗本]][[太田直熹]]([[永井尚備]]の次男)の次男。正室は[[戸田忠寛]]の娘。子に[[永井尚典]](次男)、[[牧野贇成]](三男)、[[永井直幹]](七男)、娘([[岡田善功]]正室)、娘([[永井尚応]]正室)、娘([[酒井忠ます|酒井忠毗]]継室)。官位は従五位下、[[山城国|山城]]守、[[出羽国|出羽]]守、[[肥前国|肥前]]守。幼名は友吉、初名は直弼。
[[旗本]][[太田直熹]]([[永井尚備]]の次男)の次男。正室は[[戸田忠寛]]の娘。子に[[永井尚典]](次男)、[[牧野贇成]](三男)、[[永井直幹]](七男)、娘([[岡田善功]]正室)、娘([[永井尚応]]正室)、娘([[酒井忠毗]]継室)。官位は従五位下、[[山城国|山城]]守、[[出羽国|出羽]]守、[[肥前国|肥前]]守。幼名は友吉、初名は直弼。


[[寛政]]2年([[1790年]])10月29日、先代[[永井直旧]]が嗣子なくして死去したため、従弟にあたる尚佐が[[末期養子]]となって家督を継いだ。寛政10年([[1798年]])12月16日、従五位下山城守に叙任する。後に出羽守、肥前守に改める。幕府から[[大坂城|大坂]][[加番]]を命じられる。寛政10年から翌年にかけて、洪水を契機として[[百姓一揆]]が起こり、藩政では多難を極めた。
[[寛政]]2年([[1790年]])10月29日、先代[[永井直旧]]が嗣子なくして死去したため、従弟にあたる尚佐が[[末期養子]]となって家督を継いだ。寛政10年([[1798年]])12月16日、従五位下山城守に叙任する。後に出羽守、肥前守に改める。幕府から[[大坂城|大坂]][[加番]]を命じられる。寛政10年から翌年にかけて、洪水を契機として[[百姓一揆]]が起こり、藩政では多難を極めた。

2020年7月5日 (日) 05:31時点における版

永井尚佐

永井 尚佐(ながい なおすけ、1783年天明3年) - 1839年6月28日天保10年5月18日))は、美濃加納藩の第4代藩主。尚庸系永井家7代。

経歴

旗本太田直熹永井尚備の次男)の次男。正室は戸田忠寛の娘。子に永井尚典(次男)、牧野贇成(三男)、永井直幹(七男)、娘(岡田善功正室)、娘(永井尚応正室)、娘(酒井忠毗継室)。官位は従五位下、山城守、出羽守、肥前守。幼名は友吉、初名は直弼。

寛政2年(1790年)10月29日、先代永井直旧が嗣子なくして死去したため、従弟にあたる尚佐が末期養子となって家督を継いだ。寛政10年(1798年)12月16日、従五位下山城守に叙任する。後に出羽守、肥前守に改める。幕府から大坂加番を命じられる。寛政10年から翌年にかけて、洪水を契機として百姓一揆が起こり、藩政では多難を極めた。

文化5年(1808年)、を直弼から尚佐と改める。文政2年(1819年)7月8日、奏者番に就任する。文政10年12月20日、若年寄に就任する。天保10年(1839年)5月18日、57歳で死去した。法号は仁山義顕正改院。跡を次男の尚典が継いだ。