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'''酒井 忠経'''(さかい ただつね、[[嘉永]]元年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1848年]][[9月26日]]) - [[明治]]17年([[1884年]])[[12月5日]])は、[[越前国|越前]][[敦賀藩]]の第8代(最後)の藩主。忠稠系[[小浜藩]]酒井家別家8代。第7代藩主・[[酒井忠毗|酒井忠眦]]の四男。正室は[[板倉勝顕]]の娘。継室は斉藤桜門の娘。子は[[酒井忠亮]](長男)、娘(上杉某室)。官位は従五位下、右京亮。 |
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[[慶応]]3年([[1867年]])6月17日、佐幕派の立場に苦しんだ父の隠退により家督を継ぐ。翌年の[[戊辰戦争]]では本家の[[小浜藩]]が幕府側に与したのに対して、忠経は父と180度方向を転換して新政府側に与した。 |
[[慶応]]3年([[1867年]])6月17日、佐幕派の立場に苦しんだ父の隠退により家督を継ぐ。翌年の[[戊辰戦争]]では本家の[[小浜藩]]が幕府側に与したのに対して、忠経は父と180度方向を転換して新政府側に与した。 |
2020年7月5日 (日) 05:31時点における版
酒井 忠経(さかい ただつね、嘉永元年8月29日(1848年9月26日) - 明治17年(1884年)12月5日)は、越前敦賀藩の第8代(最後)の藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家8代。第7代藩主・酒井忠眦の四男。正室は板倉勝顕の娘。継室は斉藤桜門の娘。子は酒井忠亮(長男)、娘(上杉某室)。官位は従五位下、右京亮。
慶応3年(1867年)6月17日、佐幕派の立場に苦しんだ父の隠退により家督を継ぐ。翌年の戊辰戦争では本家の小浜藩が幕府側に与したのに対して、忠経は父と180度方向を転換して新政府側に与した。
明治元年(1868年)6月、朝廷伺候のため訪れた京都において、藩士5人が家老の野口文太夫らを殺害する事件が発生した(鞠山騒動)。野口が忠経を若年と侮り、専横の振る舞いがあったためという。
明治2年(1869年)には版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)5月、敦賀藩を鞠山藩と改称した。
同年9月、小浜藩との合併に伴って小浜藩知事となるが、翌年7月の廃藩置県で廃藩となった。明治17年(1884年)12月5日、37歳で死去した。