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「明願寺 (岡崎市)」の版間の差分

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[[File:Okazaki-Myoganji-2.jpg|thumb|270px|明願寺の境内]]
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'''明願寺'''(みょうがんじ)は、[[愛知県]][[岡崎市]][[伊賀町 (岡崎市)|伊賀町]]にある[[浄土真宗本願寺派]]の[[寺院]]。[[本尊]]は[[阿弥陀如来]]。[[江戸時代|江戸]]前期の茶人、[[山田宗]]の唯一の遺構(茶室)があることで知られる<ref name="SENSAI">{{Cite book|和書
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|author = [[東海愛知新聞|東海新聞社]]編纂
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創建の年代はよくわかっていない。もともとは[[天台宗]][[真福寺 (岡崎市)|真福寺]]の別院であったが、住職の清山が[[蓮如]]に帰依したことから、文明2年(1470年)に[[浄土真宗本願寺派]]に改宗した。200数十年前に建てられた本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されている。
創建の年代はよくわかっていない。もともとは[[天台宗]][[真福寺 (岡崎市)|真福寺]]の別院であったが、住職の清山が[[蓮如]]に帰依したことから、文明2年(1470年)に[[浄土真宗本願寺派]]に改宗した。200数十年前に建てられた本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されている。


「淇篆庵(きろくあん)」は、明暦元年(1655年)に[[山田宗]]によって建てられた二帖茶室で、当初は[[吉田城]]の城下町にあった。当時の藩主[[小笠原忠知]]が[[掛川藩]]に移封になると、茶室は宗偏の次男・山田久作により、掛川城の城下にある円満寺(静岡県掛川市)に移された。そして[[享保]]20年(1735年)5月10日、久作の子・山田茂右衛門が、宗偏伝来の茶器とともに円満寺住職の実兄である明願寺住職・淇篆庵撲民(きろくあんぼくみん)に寄進し、現在地に移築された<ref name="SENSAI" /><ref>[http://myogwanji.org/?page_id=9 明願寺の今と昔 - 明願寺日和]</ref>。茶室は、切妻造の平家建、桟瓦葺で、こけら葺の庇を付ける<ref>[http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kensitei/0108.html 淇篆庵並水屋(きろくあんならびにみずや) | 文化財ナビ愛知]</ref>。
「淇篆庵(きろくあん)」は、明暦元年(1655年)に[[山田宗]]によって建てられた二帖茶室で、当初は[[吉田城]]の城下町にあった。当時の藩主[[小笠原忠知]]が[[掛川藩]]に移封になると、茶室は宗偏の次男・山田久作により、掛川城の城下にある円満寺(静岡県掛川市)に移された。そして[[享保]]20年(1735年)5月10日、久作の子・山田茂右衛門が、宗偏伝来の茶器とともに円満寺住職の実兄である明願寺住職・淇篆庵撲民(きろくあんぼくみん)に寄進し、現在地に移築された<ref name="SENSAI" /><ref>[http://myogwanji.org/?page_id=9 明願寺の今と昔 - 明願寺日和]</ref>。茶室は、切妻造の平家建、桟瓦葺で、こけら葺の庇を付ける<ref>[http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kensitei/0108.html 淇篆庵並水屋(きろくあんならびにみずや) | 文化財ナビ愛知]</ref>。


その後、宗偏の江戸門流(江戸千家)5代目の龍溪<ref>龍溪の墓は市内[[中町 (岡崎市)|中町]]の[[極楽寺 (岡崎市)|極楽寺]]にある。</ref>が[[天保]]年間(1830年~43年)に四畳半の茶室「弟也斎」を増築した。淇篆庵は県の文化財に、弟也斎は市の文化財にそれぞれ指定されている。
その後、宗偏の江戸門流(江戸千家)5代目の龍溪<ref>龍溪の墓は市内[[中町 (岡崎市)|中町]]の[[極楽寺 (岡崎市)|極楽寺]]にある。</ref>が[[天保]]年間(1830年~43年)に四畳半の茶室「弟也斎」を増築した。淇篆庵は県の文化財に、弟也斎は市の文化財にそれぞれ指定されている。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[山田宗]]
* [[山田宗]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2020年7月6日 (月) 21:57時点における版

明願寺
所在地 愛知県岡崎市伊賀町西郷中114番地
位置 北緯34度58分22.586秒 東経137度9分52.587秒 / 北緯34.97294056度 東経137.16460750度 / 34.97294056; 137.16460750座標: 北緯34度58分22.586秒 東経137度9分52.587秒 / 北緯34.97294056度 東経137.16460750度 / 34.97294056; 137.16460750
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
文化財 淇篆庵並水屋、弟也斎
公式サイト 明願寺日和
法人番号 8180305001008 ウィキデータを編集
明願寺 (岡崎市)の位置(愛知県内)
明願寺 (岡崎市)
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明願寺の境内

明願寺(みょうがんじ)は、愛知県岡崎市伊賀町にある浄土真宗本願寺派寺院本尊阿弥陀如来江戸前期の茶人、山田宗徧の唯一の遺構(茶室)があることで知られる[1]

概要

創建の年代はよくわかっていない。もともとは天台宗真福寺の別院であったが、住職の清山が蓮如に帰依したことから、文明2年(1470年)に浄土真宗本願寺派に改宗した。200数十年前に建てられた本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されている。

「淇篆庵(きろくあん)」は、明暦元年(1655年)に山田宗徧によって建てられた二帖茶室で、当初は吉田城の城下町にあった。当時の藩主小笠原忠知掛川藩に移封になると、茶室は宗偏の次男・山田久作により、掛川城の城下にある円満寺(静岡県掛川市)に移された。そして享保20年(1735年)5月10日、久作の子・山田茂右衛門が、宗偏伝来の茶器とともに円満寺住職の実兄である明願寺住職・淇篆庵撲民(きろくあんぼくみん)に寄進し、現在地に移築された[1][2]。茶室は、切妻造の平家建、桟瓦葺で、こけら葺の庇を付ける[3]

その後、宗偏の江戸門流(江戸千家)5代目の龍溪[4]天保年間(1830年~43年)に四畳半の茶室「弟也斎」を増築した。淇篆庵は県の文化財に、弟也斎は市の文化財にそれぞれ指定されている。

茶室は非公開。ただし毎年4月の日曜日に開かれるお茶会で一般公開される。

文化財

以下の物件が文化財に指定されている[5]

指定名称 指定別 種別 指定年月日
淇篆庵並水屋 県指定有形文化財 建築物 1979年(昭和54年)6月13日
弟也斎 市指定文化財 建築物 1978年(昭和53年)6月15日

脚注

参考文献

  • 『岡崎 史跡と文化財めぐり』岡崎市役所、2003年1月1日、39頁。 

関連項目

外部リンク