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[[安政]]2年([[1855年]])4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年([[1856年]])2月[[相模国|相模]]出衛を命ぜられ、同4年([[1857年]])4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年([[1858年]])11月の[[松下村塾]]閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に[[杉民治]]と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。
[[安政]]2年([[1855年]])4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年([[1856年]])2月[[相模国|相模]]出衛を命ぜられ、同4年([[1857年]])4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年([[1858年]])11月の[[松下村塾]]閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に[[杉民治]]と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。


[[万延]]元年([[1860年]])山口講習堂及び[[三田尻]]越氏塾で教え、[[文久]]元年([[1861年]])以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。[[元治]]元年([[1864年]])12月、藩の恭順派のために[[野山獄]]に投ぜられ、翌慶応元年([[1865年]])出獄する。5月には藩命により、当時[[太宰府]]滞在中の五卿([[七卿落ち]]の7人から[[錦小路頼徳]]と[[澤宣嘉]]を除いた5人)を訪ねる。[[四境戦争]]の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使[[宍戸たまき|宍戸璣(山縣半蔵)]]の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、[[長州藩諸隊|諸隊]]参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、[[鳥羽・伏見の戦い]]において、江戸幕府の死命を制するに至った。
[[万延]]元年([[1860年]])山口講習堂及び[[三田尻]]越氏塾で教え、[[文久]]元年([[1861年]])以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。[[元治]]元年([[1864年]])12月、藩の恭順派のために[[野山獄]]に投ぜられ、翌慶応元年([[1865年]])出獄する。5月には藩命により、当時[[太宰府]]滞在中の五卿([[七卿落ち]]の7人から[[錦小路頼徳]]と[[澤宣嘉]]を除いた5人)を訪ねる。[[四境戦争]]の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使[[宍戸|宍戸璣(山縣半蔵)]]の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、[[長州藩諸隊|諸隊]]参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、[[鳥羽・伏見の戦い]]において、江戸幕府の死命を制するに至った。


維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期[[三隅町 (山口県)|三隅]](現在の[[長門市]]西部)に住んでいた。明治5年([[1872年]])に[[足柄県]]参事となり、明治7年([[1874年]])に[[熊谷県]]権令、明治9年([[1876年]])の熊谷県改変に伴って新設された[[群馬県]]の[[県令]]となった。楫取の在任中に[[群馬県庁]]移転問題で[[前橋市|前橋]]が正式な県庁所在地と決定し、楫取は[[高崎市|高崎]]の住民から反感を買っている。また「明治の三[[老農]]」の一人[[船津伝次平]]に[[駒場農学校]]へ奉職するよう勧めている。
維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期[[三隅町 (山口県)|三隅]](現在の[[長門市]]西部)に住んでいた。明治5年([[1872年]])に[[足柄県]]参事となり、明治7年([[1874年]])に[[熊谷県]]権令、明治9年([[1876年]])の熊谷県改変に伴って新設された[[群馬県]]の[[県令]]となった。楫取の在任中に[[群馬県庁]]移転問題で[[前橋市|前橋]]が正式な県庁所在地と決定し、楫取は[[高崎市|高崎]]の住民から反感を買っている。また「明治の三[[老農]]」の一人[[船津伝次平]]に[[駒場農学校]]へ奉職するよう勧めている。

2020年7月6日 (月) 22:06時点における版

楫取 素彦
かとり もとひこ
生年月日 1829年4月18日
出生地 長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市
没年月日 (1912-08-14) 1912年8月14日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 山口県三田尻(現防府市
出身校 明倫館
前職 長州藩
称号 正二位勲一等男爵
配偶者 杉寿(久子) (1853年 - 1881年)
杉文(美和子) (1883年 - 1921年)

在任期間 1876年 - 1884年

在任期間 1884年 - 1890年
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楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日1829年4月18日) - 大正元年(1912年8月14日)は、幕末長州藩志士明治時代の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助(おだむら いのすけ)と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名[1]した。は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。

幕末を代表する人物である吉田松陰とは関係が深く、また松陰の次妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後の明治16年(1883年)、久坂玄瑞の未亡人であった末妹の美和子(文)と再婚している。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(久坂家を一時継ぎ、のち楫取家の籍に入る、芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。曾孫(希家の養孫、道明の外孫)に小田村寅二郎小田村四郎らがいる。

来歴

文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作(松田謙三)がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、同家は代々儒官であった。弘化元年(1844年明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎佐藤一斎に教えを受ける。

安政2年(1855年)4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年(1858年)11月の松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。

万延元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により、当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。

維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期三隅(現在の長門市西部)に住んでいた。明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。また「明治の三老農」の一人船津伝次平駒場農学校へ奉職するよう勧めている。

明治17年(1884年)、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年男爵を授けられる。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[3]

台湾で横死した次男・道明の遺児である三郎が男爵位を継いだ。

栄典

叙位
勲章等

顕彰

系図

松島瑞蟠
 
 
松島剛蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
杉民治
 
磯村應
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田松陰
 
 
 
 
 
 
小田村有芳
 
 
小田村寅二郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久子(寿)
 
 
小田村希家
 
 
 
 
 
 
 
 
小田村四郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小田村吉兵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
治子
 
 
小田村五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楫取素彦
(小田村希哲)
 
 
楫取道明
(久坂粂次郎)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楫取三郎
 
楫取松若
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美和子(文)
 
 
美寿子
千種有任娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久坂玄瑞
 
久坂秀次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松田謙三
(小倉健作)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

  1. ^ 楫取以外にも藩命により、桂小五郎が木戸孝允に、村田蔵六が大村益次郎に改名している。
  2. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  3. ^ 官報第15号 大正元年8月16日付274頁 「叙任及辞令」 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 宮中顧問官従二位勲二等男爵楫取素彦」 アジア歴史資料センター Ref.A10112747100 
  5. ^ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
  6. ^ 『官報』第16号「叙任」1883年7月19日。
  7. ^ 『官報』第354号「叙任及辞令」1884年9月1日。
  8. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  9. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  10. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  11. ^ a b 『官報』第15号「叙任及辞令」1912年8月16日。
  12. ^ 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
  13. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  14. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  15. ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
  16. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。

関連作品

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
楫取家初代
1887年 - 1912年
次代
楫取三郎