コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「われらが愛知」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 楽曲カテゴリの改名差し戻し3 (Category:西條八十が制作した楽曲) - log
76行目: 76行目:
[[Category:国民体育大会の音楽]]
[[Category:国民体育大会の音楽]]
[[Category:藤山一郎の楽曲]]
[[Category:藤山一郎の楽曲]]
[[Category:西條八十が作した楽曲]]
[[Category:西條八十が作した楽曲]]
[[Category:古関裕而が制作した楽曲]]
[[Category:古関裕而が制作した楽曲]]
[[Category:1950年の楽曲]]
[[Category:1950年の楽曲]]

2020年7月8日 (水) 21:29時点における版

われらが愛知

県民歌の対象
愛知県

作詞 若葉清成
西條八十(補作)
作曲 古関裕而
採用時期 1950年8月15日
言語 日本語
テンプレートを表示

われらが愛知」(われらがあいち)は日本都道府県の一つ、愛知県が制定した県民歌である。作詞・若葉清成、補作・西條八十、作曲・古関裕而

沿革

「われらが愛知」
藤山一郎安西愛子シングル
A面 われらが愛知
B面 行進曲「われらが愛知」(インストゥルメンタル
リリース
規格 SPレコード
ジャンル 都道府県民歌
レーベル 日本コロムビア(PR770)
作詞・作曲 作詞:若葉清成、補作:西條八十、作曲:古関裕而
テンプレートを表示

前史

愛知県における県民歌制定に向けた最初の動きは、1918年大正7年)に愛知県教育会が『愛知教育雑誌』を通じて行った「愛知県歌」の懸賞募集に始まる[1]。この懸賞募集では1910年明治43年)に名古屋市歌を作詞した国語学者上田萬年が審査委員長を務め、62編の応募作が集まったが「該当作無し」となり佳作3編が選定されるに留まった[1]。愛知県教育会はこの結果を受けて上田に作詞を依頼したが、歌詞が完成したことを示す記録は確認されていないため未完成に終わったものとみられる[1]

制定

作詞者の若葉清成(『広報あいち』1950年8月15日号)

太平洋戦争終結から5年後の1950年昭和25年)、同年の愛知国体開催に先立ち「郷土色豊かで愛知の県勢を詠み、老幼を問わず誰でも歌いうるもの」として県と中部日本新聞社(現在の中日新聞社)が合同で県章のデザインと合わせて県民歌の歌詞を募集し、1073編の応募作から国鉄名古屋鉄道局職員の若葉清成が応募した歌詞が入選した[2]

入選作を基に西條八十が補作、古関裕而が作曲をそれぞれ委託により担当し[3][4]8月15日付の県広報紙で県章と共に制定が発表された[2]。同年には日本コロムビアより藤山一郎安西愛子が歌うSPレコードが製造されている。

現在

県の行事以外で演奏されることは少ないが、2008年平成20年)8月にはブラジル愛知県人会総会の50周年記念式典で演奏されている[4]

特徴

県民歌の多くに見られる国民体育大会を契機に制定された「国体県民歌」と1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後に荒廃した県土を再建する意思を歌い上げる「復興県民歌」の両面を兼ね備えている。また、3番では横浜港神戸港に次ぐ国際港湾として昭和初期から急速な発展を遂げていた名古屋港を讃えていることが大きな特徴である[3]

脚注

  1. ^ a b c 『愛知県公文書館だより』第15号2010年12月25日発行)、8ページ。
  2. ^ a b 愛知県広報室『広報あいち』1950年8月15日号2面。
  3. ^ a b 国民文化協会『事典 シンボルと公式制度 日本篇』(国際図書、1968年)、193ページ。
  4. ^ a b 中山裕一郎 監修『全国 都道府県の歌・市の歌』(東京堂出版2012年ISBN 978-4-490-20803-0 、252ページ。

外部リンク