「ペドロ・トログリオ」の版間の差分
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m Bot作業依頼: アスコリ・カルチョ1898 FCの選手のカテゴリ改名 (Category:アスコリ・カルチョ1898 FCの選手) - log |
||
106行目: | 106行目: | ||
[[Category:エラス・ヴェローナFCの選手]] |
[[Category:エラス・ヴェローナFCの選手]] |
||
[[Category:SSラツィオの選手]] |
[[Category:SSラツィオの選手]] |
||
[[Category:アスコリの選手]] |
[[Category:アスコリ・カルチョ1898 FCの選手]] |
||
[[Category:中央防犯サッカー部の選手]] |
[[Category:中央防犯サッカー部の選手]] |
||
[[Category:アビスパ福岡の選手]] |
[[Category:アビスパ福岡の選手]] |
2020年7月9日 (木) 12:53時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 |
ペドロ・アントニオ・トログリオ Pedro Antonio Troglio | |||||
愛称 | チャンチャ(スペイン語で子豚)[1] | |||||
ラテン文字 | Pedro TROGLIO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1965年7月28日(59歳) | |||||
出身地 | ルハン | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1988 | リーベル・プレート | 59 | (3) | |||
1988-1989 | ヴェローナ | 32 | (1) | |||
1989-1991 | ラツィオ | 40 | (1) | |||
1991-1994 | アスコリ | 106 | (13) | |||
1994 | 中央防犯 | 0 | (0) | |||
1995-1996 | アビスパ福岡 | 56 | (20) | |||
1997-2002 | ヒムナシア | 124 | (4) | |||
2002-2003 | ビジャ・ダルミネ | 31 | (4) | |||
通算 | 448 | (46) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1990 | アルゼンチン | 21 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2005 | ゴドイ・クルス | |||||
2005-2007 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2007-2008 | インデペンディエンテ | |||||
2008-2010 | セロ・ポルテーニョ | |||||
2010-2011 | アルヘンティノス | |||||
2011-2016 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2016 | ティグレ | |||||
2017-2018 | ウニベルシタリオ | |||||
2018-2019 | ヒムナシア・ラ・プラタ | |||||
2019- | CDオリンピア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ペドロ・アントニオ・トログリオ(Pedro Antonio Troglio, 1965年7月28日 - )はアルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
経歴
現役時代
CAリーベル・プレートでキャリアを始める。リーベルでは、リーグ優勝や、リベルタドーレスカップの優勝を経験。1986年のトヨタカップでも優勝した。 代表ではコパ・アメリカ1989に出場した他、1990 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表の一員として出場し、6試合に出場、ソビエト連邦戦ではゴールを挙げた[2]。 イタリアではラツィオ、アスコリ、ヴェローナで4シーズンをセリエA、2シーズンをセリエBでプレーした。ベローナでは代表のチームメートであったクラウディオ・カニーヒアと共にプレーした。
その後1994年アビスパ福岡の前身、当時JFLの中央防犯サッカー部に加入、1978 FIFAワールドカップでアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギン監督の下、1995年のJFL優勝に貢献、1996年にはJリーグに昇格し、3月23日の名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[3]、10ゴールを挙げた[4][3]。
選手生活の晩年は母国で過ごし、クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタで約5年間プレー、最後は4部所属のクラブ・ビジャ・ダルミネで現役を引退した。
指導者時代
プリメーラB・ナシオナルのCDゴドイ・クルスで初めて監督を務めるがシーズン途中に退任。2005年3月、不振に喘ぐヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタの指揮官の座に就きクラブをプリメーラ・ディビシオンに残留させることに成功した[5]。翌シーズンのアペルトゥーラではクラブを過去最高タイの2位に導いた。同年6月、ヒムナシアで自身が着けていた背番号である21番がクラブ初の永久欠番に指定された。以降クラブはエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとのダービーマッチでは0-7の大敗を喫するなど再び下降線を辿り、2007年7月に辞任した。しかしファンからの支持は根強く、成績低迷に関する批判はフアン・ホセ・ムニョス会長に向けられた。
同年、ホルヘ・ブルチャガが退任したCAインデペンディエンテの監督に就任したが、翌年3月には成績不振により解任された。セロ・ポルテーニョの監督として2009年のアペルトゥーラを制すると、翌年5月30日にはクラウディオ・ボルギに代わってAAアルヘンティノス・ジュニアーズを率いることになった[6]。2011-12アペルトゥーラでは開幕以来低迷し、2011年9月18日に辞任することを発表した[7]。
2016年3月22日、CAティグレの監督に招聘された[8]。
2019年6月14日、ホンジュラス1部のCDオリンピアの監督に就任[9]。
個人成績
この節の加筆が望まれています。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 中央防犯 | JFL | 0 | 0 | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
1995 | 福岡B | 8 | 29 | 10 | - | 3 | 1 | 32 | 11 | ||
1996 | 福岡 | - | J | 27 | 10 | 14 | 2 | 1 | 0 | 42 | 12 |
通算 | 日本 | J1 | 27 | 10 | 14 | 2 | 1 | 0 | 42 | 12 | |
日本 | JFL | 29 | 10 | - | 4 | 1 | 33 | 11 | |||
総通算 |
代表歴
- 1987年 - 1990年 アルゼンチン代表
- コパ・アメリカ1989
- 1990 FIFAワールドカップ (準優勝、6試合1得点)
脚注
- ^ トヨタカップ 1986年 大会公式パンフレット p.17
- ^ *ペドロ・トログリオ – FIFA主催大会成績
- ^ a b “トログリオ” 17 April 2020閲覧。
- ^ ペドロ・トログリオ - National-Football-Teams.com
- ^ “Pedro Troglio regresa a Gimnasia y Esgrima como técnico”. 2005年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年2月24日閲覧。
- ^ “Presentación de Troglio”. Asociación Atlética Argentinos Juniors (2010年5月30日). 2016年9月25日閲覧。
- ^ “El adiós de Pedro”. Asociación Atlética Argentinos Juniors (2011年9月18日). 2016年9月25日閲覧。
- ^ “PRESENTACIÓN PEDRO TROGLIO”. Club Atlético Tigre (2016年3月22日). 2016年9月25日閲覧。
- ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。“[1]”. TyC Sports (2019年6月14日). 2020年2月12日閲覧。
外部リンク
- ペドロ・トログリオ – FIFA主催大会成績
- ペドロ・トログリオ - National-Football-Teams.com
- ペドロ・トログリオ - Soccerbase
- ペドロ・トログリオ - J. League Data Siteによる選手データ