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'''歩 闡'''(ほ せん、? - [[273年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将。[[字]]は'''仲思'''<ref>[[許嵩]]著『[[建康実録]]』</ref>。[[徐州]][[臨淮郡]][[淮陰県]]の人。父は[[ |
'''歩 闡'''(ほ せん、? - [[273年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将。[[字]]は'''仲思'''<ref>[[許嵩]]著『[[建康実録]]』</ref>。[[徐州]][[臨淮郡]][[淮陰県]]の人。父は[[歩騭]]。兄は[[歩協]]。甥は[[歩璣]]・[[歩璿]]。 |
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2020年7月11日 (土) 12:23時点における版
歩 闡(ほ せん、? - 273年)は、中国三国時代の呉の武将。字は仲思[1]。徐州臨淮郡淮陰県の人。父は歩騭。兄は歩協。甥は歩璣・歩璿。
生涯
兄の歩協の死後、後を継ぎ西陵督となり、加えて昭武将軍を拝命し、西亭侯に封ぜられた。
鳳凰元年(272年)8月、呉帝孫晧は歩闡を繞帳督に任じ、武昌に戻るよう命じた。しかし、突然の召還命令であったため、歩闡は讒禍を恐れて西陵の城に籠り、歩璣・歩璿を洛陽に人質として送り晋に投降した。晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司[2]に任じ、侍中を加官し、仮節を与えて交州牧を兼任させ、宜都公に封じた。
怒った孫晧は陸抗らに命じて西陵を攻撃させた。歩闡は晋に援軍を要請し、私財を投げ打って蛮族にも協力を仰いだ。しかし、同年12月(273年1月)、歩闡を救援しようとした晋の羊祜らは陸抗に撃退され、西陵城は孤立無援となりやがて陥落した(西陵の戦い)。敗れた歩闡は処刑され、また人質として洛陽に送った甥の歩璿以外の一族も皆、落城後に処刑された[3] 。