「李粛 (孫呉)」の版間の差分
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歩騭が太子の[[孫登]]に対し、[[荊州]]で仕事に励んでいる11名<ref>[[諸葛瑾]]・[[陸遜]]・[[朱然]]・[[呂岱]]・[[潘濬]]・[[裴玄]]・[[夏侯承]]・[[衛旌]]・李粛・[[周条]]・[[石幹]]</ref>の人材として、名を挙げた内の一人である。 |
2020年7月11日 (土) 12:24時点における版
李 粛(り しゅく、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の人物。字は偉恭。南陽郡の人。
生涯
歩騭伝が引く『呉書』によると、若い頃から才能をあらわした人物で、特に人物鑑定が得意であったという。孫権に選曹尚書に取り立てられ、人材登用に優れた手腕を示した。後に自ら進んで桂陽太守となり、官民の信望を集めた。その後、中央に戻り卿となった。死期は不明であるが、突然死去したため、周囲は悲しんだという。
歩騭が太子の孫登に対し、荊州で仕事に励んでいる11名[1]の人材として、名を挙げた内の一人である。
若い頃の孟宗の学問の師となり、宰相の器足り得る人材であると評価された(『三国志』「呉書」三嗣主伝の引く『呉録』)。