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初代の総弁には道員[[李宗濂]]があてられ、[[淮軍]]の中から選抜された[[士官]]と優秀兵士百名余りが入学した。初めは[[歩兵|歩]]・[[騎兵|馬]]・[[砲兵|炮]]・[[工兵|工程]]の四科が設けられていたが、[[1890年]]に鉄路科が増設された。教官には[[ドイツ帝国|ドイツ]]の退役軍人が多く採用された。天津武備学堂で定められた規則は、後に各省で創設された武備学堂の参考にされた。[[1899年]]には[[段祺瑞]]ら5名の学生をドイツに留学させた。卒業生の多くは各省の新軍の中心となった。中でも段祺瑞・[[馮国璋]]・[[王士珍]]・[[曹錕]]・[[呉佩孚]]らは後に[[北洋軍閥]]の指導者となった。 |
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2020年7月11日 (土) 21:30時点における版
天津武備学堂(てんしんぶびがくどう)は清末に直隷総督李鴻章によって天津に創設された陸軍軍人を養成する西洋式の軍学校。1885年に成立したが、1900年、義和団の乱の際に8ヶ国連合軍によって破壊された。北洋武備学堂ともいう。
概要
初代の総弁には道員李宗濂があてられ、淮軍の中から選抜された士官と優秀兵士百名余りが入学した。初めは歩・馬・炮・工程の四科が設けられていたが、1890年に鉄路科が増設された。教官にはドイツの退役軍人が多く採用された。天津武備学堂で定められた規則は、後に各省で創設された武備学堂の参考にされた。1899年には段祺瑞ら5名の学生をドイツに留学させた。卒業生の多くは各省の新軍の中心となった。中でも段祺瑞・馮国璋・王士珍・曹錕・呉佩孚らは後に北洋軍閥の指導者となった。