「張廷諤」の版間の差分
m →参考文献 |
|||
23行目: | 23行目: | ||
[[1910年]]([[宣統]]2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して[[大阪工業大学 (旧制)|大阪高等工業学校]]で学んだ。[[1911年]]10月に[[武昌起義]]([[辛亥革命]])が勃発すると帰国し、[[馮玉祥]]らが主導した[[ラン州起義|灤州起義]]に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた[[胡瑛 (湖南)|胡瑛]]の下へ逃れて[[竜口市|黄県]]県長を務めた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1787頁。</ref><ref name=liu>劉国銘主編(2005)、1194頁。</ref> |
[[1910年]]([[宣統]]2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して[[大阪工業大学 (旧制)|大阪高等工業学校]]で学んだ。[[1911年]]10月に[[武昌起義]]([[辛亥革命]])が勃発すると帰国し、[[馮玉祥]]らが主導した[[ラン州起義|灤州起義]]に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた[[胡瑛 (湖南)|胡瑛]]の下へ逃れて[[竜口市|黄県]]県長を務めた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1787頁。</ref><ref name=liu>劉国銘主編(2005)、1194頁。</ref> |
||
[[中華民国]]建国後に張廷諤は復学し、天津直隷高等工業学堂機械科で学ぶ。[[1915年]]([[民国紀元|民国]]4年)に卒業後、直隷航輪局理事や天津内河輪船局局長に任ぜられ、まもなく[[直隷省 (中華民国)|直隷省]]議会議員に当選している。[[袁世凱]]死去後、張は[[直隷派]]の一員と目されるようになる。[[1922年]](民国11年)、[[山東省 (中華民国)|山東省]]塩運使兼[[青島市|青島]]接収委員会委員に任ぜられた。その後、[[北京市|北京]]電報局総弁兼直魯電政監督に移っている。[[1923年]](民国12年)、国務院秘書長に抜擢され、翌[[1924年]](民国13年)1月以降は、総統府高等顧問、[[山西省 (中華民国)|山西省]]河東塩運使、直隷省長蘆塩運使を歴任している。しかし、直隷派指導者である[[曹 |
[[中華民国]]建国後に張廷諤は復学し、天津直隷高等工業学堂機械科で学ぶ。[[1915年]]([[民国紀元|民国]]4年)に卒業後、直隷航輪局理事や天津内河輪船局局長に任ぜられ、まもなく[[直隷省 (中華民国)|直隷省]]議会議員に当選している。[[袁世凱]]死去後、張は[[直隷派]]の一員と目されるようになる。[[1922年]](民国11年)、[[山東省 (中華民国)|山東省]]塩運使兼[[青島市|青島]]接収委員会委員に任ぜられた。その後、[[北京市|北京]]電報局総弁兼直魯電政監督に移っている。[[1923年]](民国12年)、国務院秘書長に抜擢され、翌[[1924年]](民国13年)1月以降は、総統府高等顧問、[[山西省 (中華民国)|山西省]]河東塩運使、直隷省長蘆塩運使を歴任している。しかし、直隷派指導者である[[曹錕]]が[[北京政変]](首都革命)で失脚したため、張も下野した。その後は天津で塩の販売業を営むなどしている。<ref name=Xu/><ref name=liu/> |
||
[[1933年]](民国22年)5月、[[中華民国行政院|行政院]]駐北平政務整理委員会委員長の[[黄郛]]と旧交があったため、張廷諤は顧問として招聘された。[[1934年]](民国23年)11月、[[天津市|天津特別市]]市長となるが、数か月後の翌年6月に罷免された。[[日中戦争]](抗日戦争)勃発に伴い、天津が陥落すると、[[租界]]に逃れて寓居した。更に[[上海市|上海]]、[[香港]]を経て、[[1939年]](民国28年)に[[重慶市|重慶]]へ移っている。戦後の[[1945年]](民国34年)8月に天津市長に再任され、天津市党政接収委員会主任委員も兼ねた。翌[[1946年]](民国35年)10月、病気により辞職している。[[国共内戦]]末期に[[台湾]]へ逃れ、[[中華民国総統府|総統府]]国策顧問に任命された。[[1973年]](民国62年)7月27日、[[台北市]]にて死去。享年84。<ref>徐主編(2007)、1787-88頁。</ref><ref name=liu/> |
[[1933年]](民国22年)5月、[[中華民国行政院|行政院]]駐北平政務整理委員会委員長の[[黄郛]]と旧交があったため、張廷諤は顧問として招聘された。[[1934年]](民国23年)11月、[[天津市|天津特別市]]市長となるが、数か月後の翌年6月に罷免された。[[日中戦争]](抗日戦争)勃発に伴い、天津が陥落すると、[[租界]]に逃れて寓居した。更に[[上海市|上海]]、[[香港]]を経て、[[1939年]](民国28年)に[[重慶市|重慶]]へ移っている。戦後の[[1945年]](民国34年)8月に天津市長に再任され、天津市党政接収委員会主任委員も兼ねた。翌[[1946年]](民国35年)10月、病気により辞職している。[[国共内戦]]末期に[[台湾]]へ逃れ、[[中華民国総統府|総統府]]国策顧問に任命された。[[1973年]](民国62年)7月27日、[[台北市]]にて死去。享年84。<ref>徐主編(2007)、1787-88頁。</ref><ref name=liu/> |
2020年7月11日 (土) 21:32時点における版
張廷諤 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年) |
死去: |
1973年(民国62年)7月27日 台湾台北市 |
出身地: | 清直隷省遵化州豊潤県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張廷諤 |
簡体字: | 张廷谔 |
拼音: | Zhāng Tíng'è |
ラテン字: | Chang T'ing-o |
和名表記: | ちょう ていがく |
発音転記: | ジャン ティンオー |
張 廷諤(ちょう ていがく、繁体字: 張廷諤; 簡体字: 张廷谔; 繁体字: 張廷諤; 拼音: Zhāng Tíng'è; ウェード式: Chang T'ing-o、1890年(清光緒16年) - 1973年(民国62年)7月27日)は、中華民国(台湾)の政治家。字は直卿。
事績
1910年(宣統2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して大阪高等工業学校で学んだ。1911年10月に武昌起義(辛亥革命)が勃発すると帰国し、馮玉祥らが主導した灤州起義に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた胡瑛の下へ逃れて黄県県長を務めた。[1][2]
中華民国建国後に張廷諤は復学し、天津直隷高等工業学堂機械科で学ぶ。1915年(民国4年)に卒業後、直隷航輪局理事や天津内河輪船局局長に任ぜられ、まもなく直隷省議会議員に当選している。袁世凱死去後、張は直隷派の一員と目されるようになる。1922年(民国11年)、山東省塩運使兼青島接収委員会委員に任ぜられた。その後、北京電報局総弁兼直魯電政監督に移っている。1923年(民国12年)、国務院秘書長に抜擢され、翌1924年(民国13年)1月以降は、総統府高等顧問、山西省河東塩運使、直隷省長蘆塩運使を歴任している。しかし、直隷派指導者である曹錕が北京政変(首都革命)で失脚したため、張も下野した。その後は天津で塩の販売業を営むなどしている。[1][2]
1933年(民国22年)5月、行政院駐北平政務整理委員会委員長の黄郛と旧交があったため、張廷諤は顧問として招聘された。1934年(民国23年)11月、天津特別市市長となるが、数か月後の翌年6月に罷免された。日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、天津が陥落すると、租界に逃れて寓居した。更に上海、香港を経て、1939年(民国28年)に重慶へ移っている。戦後の1945年(民国34年)8月に天津市長に再任され、天津市党政接収委員会主任委員も兼ねた。翌1946年(民国35年)10月、病気により辞職している。国共内戦末期に台湾へ逃れ、総統府国策顧問に任命された。1973年(民国62年)7月27日、台北市にて死去。享年84。[3][2]
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
|
---|