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[[1910年]]([[宣統]]2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して[[大阪工業大学 (旧制)|大阪高等工業学校]]で学んだ。[[1911年]]10月に[[武昌起義]]([[辛亥革命]])が勃発すると帰国し、[[馮玉祥]]らが主導した[[ラン州起義|&#x7064;州起義]]に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた[[胡瑛 (湖南)|胡瑛]]の下へ逃れて[[竜口市|黄県]]県長を務めた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1787頁。</ref><ref name=liu>劉国銘主編(2005)、1194頁。</ref>
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2020年7月11日 (土) 21:32時点における版

張廷諤
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)
死去: 1973年民国62年)7月27日
中華民国の旗 台湾台北市
出身地: 清の旗 直隷省遵化州豊潤県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張廷諤
簡体字 张廷谔
拼音 Zhāng Tíng'è
ラテン字 Chang T'ing-o
和名表記: ちょう ていがく
発音転記: ジャン ティンオー
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張 廷諤(ちょう ていがく、繁体字: 張廷諤; 簡体字: 张廷谔; 繁体字: 張廷諤; 拼音: Zhāng Tíng'è; ウェード式: Chang T'ing-o1890年光緒16年) - 1973年民国62年)7月27日)は、中華民国台湾)の政治家。直卿

事績

1910年宣統2年)に遵化中学を卒業し、その後日本へ留学して大阪高等工業学校で学んだ。1911年10月に武昌起義辛亥革命)が勃発すると帰国し、馮玉祥らが主導した灤州起義に参加する。しかし蜂起は失敗に終わり、山東省で革命派を率いていた胡瑛の下へ逃れて黄県県長を務めた。[1][2]

中華民国建国後に張廷諤は復学し、天津直隷高等工業学堂機械科で学ぶ。1915年民国4年)に卒業後、直隷航輪局理事や天津内河輪船局局長に任ぜられ、まもなく直隷省議会議員に当選している。袁世凱死去後、張は直隷派の一員と目されるようになる。1922年(民国11年)、山東省塩運使兼青島接収委員会委員に任ぜられた。その後、北京電報局総弁兼直魯電政監督に移っている。1923年(民国12年)、国務院秘書長に抜擢され、翌1924年(民国13年)1月以降は、総統府高等顧問、山西省河東塩運使、直隷省長蘆塩運使を歴任している。しかし、直隷派指導者である曹錕北京政変(首都革命)で失脚したため、張も下野した。その後は天津で塩の販売業を営むなどしている。[1][2]

1933年(民国22年)5月、行政院駐北平政務整理委員会委員長の黄郛と旧交があったため、張廷諤は顧問として招聘された。1934年(民国23年)11月、天津特別市市長となるが、数か月後の翌年6月に罷免された。日中戦争(抗日戦争)勃発に伴い、天津が陥落すると、租界に逃れて寓居した。更に上海香港を経て、1939年(民国28年)に重慶へ移っている。戦後の1945年(民国34年)8月に天津市長に再任され、天津市党政接収委員会主任委員も兼ねた。翌1946年(民国35年)10月、病気により辞職している。国共内戦末期に台湾へ逃れ、総統府国策顧問に任命された。1973年(民国62年)7月27日、台北市にて死去。享年84。[3][2]

  1. ^ a b 徐主編(2007)、1787頁。
  2. ^ a b c 劉国銘主編(2005)、1194頁。
  3. ^ 徐主編(2007)、1787-88頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
王韜
天津市長
1934年11月 - 1935年6月
次代
王克敏
先代
張自忠
天津市長
1945年8月 - 1946年10月
次代
杜建時