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* 1986年2月、[[国生さゆり]]のソロデビューシングル「[[バレンタイン・キッス]]」に「withおニャン子クラブ」として[[渡辺美奈代]]と共にアンダーガールを務める。同年4月、異色ユニット「[[ニャンギラス]]」のメンバーにもなる。
* 1986年2月、[[国生さゆり]]のソロデビューシングル「[[バレンタイン・キッス]]」に「withおニャン子クラブ」として[[渡辺美奈代]]と共にアンダーガールを務める。同年4月、異色ユニット「[[ニャンギラス]]」のメンバーにもなる。
* 「バレンタイン・キッス」のアンダーガール選出時に[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]からレコードデビューの話を持ちかけられたが答えを一旦保留し、結果「今後は学業に専念させて下さい」と断った経緯がある<ref>{{Cite journal |和書 |title=総決算おニャン子クラブの裏事情 |journal=オリジナルコンフィデンス年鑑 |issue=1988年12月号 |publisher=[[オリコン]] |pages=109-113}}</ref>。
* 「バレンタイン・キッス」のアンダーガール選出時に[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]からレコードデビューの話を持ちかけられたが答えを一旦保留し、結果「今後は学業に専念させて下さい」と断った経緯がある<ref>{{Cite journal |和書 |title=総決算おニャン子クラブの裏事情 |journal=オリジナルコンフィデンス年鑑 |issue=1988年12月号 |publisher=[[オリコン]] |pages=109-113}}</ref>。
* 1987年9月のおニャン子クラブ解散時まで在籍。卒業後は芸能界に残ることなく、学業に専念して[[短大]]に進学した。短大卒業後、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]・ジャパンに勤務。現在は{{いつ|date=2019年8月}}[[小児科]]の受付とヨガのインストラクターをしていて<ref>17年10/3号の[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]83ページより。</ref>、時折[[立見里歌]]と[[ハコイリムスメ|ハコイリ♡ムスメ]]とライブに出演することもある。1989年、社会学者・[[稲増龍夫]]の著書『アイドル工学』([[筑摩書房]])に元おニャン子クラブの[[立見里歌]]・[[布川智子]]とともにインタビューに応じ、当時からすでに芸能界に残る意志が無かったことなどを語った。
* 1987年9月のおニャン子クラブ解散時まで在籍。卒業後は芸能界に残ることなく、学業に専念して[[短大]]に進学した。短大卒業後、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]・ジャパンに勤務。現在は{{いつ|date=2019年8月}}[[小児科]]の受付とヨガのインストラクターをしていて<ref>17年10/3号の[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]83ページより。</ref>、時折[[立見里歌]]と[[ハコイリ♡ムスメ]]とライブに出演することもある。1989年、社会学者・[[稲増龍夫]]の著書『アイドル工学』([[筑摩書房]])に元おニャン子クラブの[[立見里歌]]・[[布川智子]]とともにインタビューに応じ、当時からすでに芸能界に残る意志が無かったことなどを語った。
* [[1992年]](平成4年)に結婚をした。その後3人続けて男子を出産した。娘がどうしても欲しかったので、女の子ができるまで出産をして3男1女の4児の母となった。(公表されている中では)おニャン子クラブで一番の子持ちである。
* [[1992年]](平成4年)に結婚をした。その後3人続けて男子を出産した。娘がどうしても欲しかったので、女の子ができるまで出産をして3男1女の4児の母となった。(公表されている中では)おニャン子クラブで一番の子持ちである。
* [[1996年]](平成8年)の『復活夕やけニャンニャン』に参加。[[2002年]](平成14年)のおニャン子再結成「[[ショーミキゲン]]」のレコーディングや特典DVDに参加しているが、再結成時の記者会見や『[[FNS歌謡祭]]』には不参加である。2001年放送の日本テレビ系『[[あの人は今!?]]』でのニャンギラスのメンバーが集まった際は不参加であった。
* [[1996年]](平成8年)の『復活夕やけニャンニャン』に参加。[[2002年]](平成14年)のおニャン子再結成「[[ショーミキゲン]]」のレコーディングや特典DVDに参加しているが、再結成時の記者会見や『[[FNS歌謡祭]]』には不参加である。2001年放送の日本テレビ系『[[あの人は今!?]]』でのニャンギラスのメンバーが集まった際は不参加であった。

2020年7月11日 (土) 21:33時点における版

しらいし まこ
白石 麻子
プロフィール
生年月日 1969年6月12日
現年齢 55歳
出身地 日本の旗 日本東京都
血液型 A型
公称サイズ(時期不明)
身長 156 cm
スリーサイズ 83 - 60 - 86 cm
活動
デビュー 1985年
ジャンル アイドル
所属グループ おニャン子クラブ
アイドル: テンプレート - カテゴリ

白石 麻子(しらいし まこ、1969年6月12日 - )は、日本の元アイドル東京都出身。東京都立小岩高等学校卒業。

経歴

  • 1985年(昭和60年)7月26日に『夕やけニャンニャン』のオーディションに101点を獲得して会員番号21番の五味岡たまきと共に合格し、おニャン子クラブの会員番号22番となる。加入早々、明るいキャラクターで人気を得る。身長156.0cm。
  • 1986年2月、国生さゆりのソロデビューシングル「バレンタイン・キッス」に「withおニャン子クラブ」として渡辺美奈代と共にアンダーガールを務める。同年4月、異色ユニット「ニャンギラス」のメンバーにもなる。
  • 「バレンタイン・キッス」のアンダーガール選出時にCBS・ソニーからレコードデビューの話を持ちかけられたが答えを一旦保留し、結果「今後は学業に専念させて下さい」と断った経緯がある[1]
  • 1987年9月のおニャン子クラブ解散時まで在籍。卒業後は芸能界に残ることなく、学業に専念して短大に進学した。短大卒業後、ジャガー・ジャパンに勤務。現在は[いつ?]小児科の受付とヨガのインストラクターをしていて[2]、時折立見里歌ハコイリ♡ムスメとライブに出演することもある。1989年、社会学者・稲増龍夫の著書『アイドル工学』(筑摩書房)に元おニャン子クラブの立見里歌布川智子とともにインタビューに応じ、当時からすでに芸能界に残る意志が無かったことなどを語った。
  • 1992年(平成4年)に結婚をした。その後3人続けて男子を出産した。娘がどうしても欲しかったので、女の子ができるまで出産をして3男1女の4児の母となった。(公表されている中では)おニャン子クラブで一番の子持ちである。
  • 1996年(平成8年)の『復活夕やけニャンニャン』に参加。2002年(平成14年)のおニャン子再結成「ショーミキゲン」のレコーディングや特典DVDに参加しているが、再結成時の記者会見や『FNS歌謡祭』には不参加である。2001年放送の日本テレビ系『あの人は今!?』でのニャンギラスのメンバーが集まった際は不参加であった。
  • おニャン子メンバーの中では特に18番の永田ルリ子と仲が良かった。

おニャン子クラブでのメイン楽曲

  • 明るい放課後の過ごし方(アルバム『PANIC THE WORLD』)
  • 恋はくえすちょん(6thシングル)
  • あんみつ大作戦(「恋はくえすちょん」カップリング)
  • NO MORE 恋愛ごっこ(7thシングル)
  • 雨のメリーゴーランド(アルバム『SIDE LINE』)
  • ハートに募金を(アルバム『SIDE LINE』)
  • ワンサイド・ゲーム(アルバム『SIDE LINE』)
  • めしべとおしべ(8thシングル「かたつむりサンバ」カップリング)
  • シンデレラのシューズ (アルバム『Circle』)
  • 未完成なジグソーパズル(アルバム『Circle』)
  • ウェディングドレス(9thシングル)
  • 私をよろしく(9thシングル「ウェディングドレス」カップリング)

出演

テレビ番組

ラジオ番組

  • おニャン子のあぶない夜だよ(1986年4月 - 1987年3月、ニッポン放送) - パーソナリティ
  • TOKYOベストヒット(1986年10月 - 1987年6月、ニッポン放送) - アシスタント

CM

脚注

  1. ^ 「総決算おニャン子クラブの裏事情」『オリジナルコンフィデンス年鑑』1988年12月号、オリコン、109-113頁。 
  2. ^ 17年10/3号のFLASH83ページより。
  3. ^ おニャン子クラブがCMで限定復活! 11名再結集し「セーラー服を脱がさないで」を歌い踊る”. オリコン顧客満足度ランキング(運営:oricon ME) (2010年1月21日). 2019年8月13日閲覧。
  4. ^ 白石麻子”. ORICON NEWS(運営:oricon ME). 2019年8月13日閲覧。

外部リンク