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前漢の[[武帝 (漢)|武帝]]の[[建元 (漢)|建元]]2年([[紀元前139年]])に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は[[大司馬]]を冠した[[将軍]]が太尉に相当したようである。また、『漢書』[[黄覇]]伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。
前漢の[[武帝 (漢)|武帝]]の[[建元 (漢)|建元]]2年([[紀元前139年]])に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は[[大司馬]]を冠した[[将軍]]が太尉に相当したようである。また、『漢書』[[黄覇]]伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。


[[後漢]]の[[光武帝]]の[[建武 (漢)|建武]]27年([[51年]])、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]もこれを継承し、[[賈ク|賈詡]]・[[鍾ヨウ|鍾繇]]らが就任した。
[[後漢]]の[[光武帝]]の[[建武 (漢)|建武]]27年([[51年]])、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]もこれを継承し、[[賈ク|賈詡]]・[[鍾繇]]らが就任した。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年7月12日 (日) 08:40時点における版

太尉(たいい)は、古代中国における官職名で、今風に言えば、軍事担当宰相であり、防衛大臣国防長官国防大臣などに相当する。主に文官が任命された。

及び前漢では三公の一つとして重要な役職であったが、『史記』や『漢書』を見る限りでは、丞相御史大夫と違い、常設されなかったようである。他の三公同様、自らの府を開いて(開府)属官を任命することが許されていた。

前漢の武帝建元2年(紀元前139年)に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は大司馬を冠した将軍が太尉に相当したようである。また、『漢書』黄覇伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。

後漢光武帝建武27年(51年)、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。三国時代もこれを継承し、賈詡鍾繇らが就任した。

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