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父と同じく魏に仕え、[[隴西郡|隴西]][[太守]]となった。[[263年]]、[[蜀漢の滅亡|蜀漢討伐]]が開始されると[[鄧艾]]に従い、[[綿竹]]の攻略で功績を立て、[[蜀漢]]滅亡後は戦後処理に当たった。蜀漢攻略の功績により振威将軍となった。 |
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魏が滅亡して晋が成立すると、[[揚州 (古代)|揚州]]、次いで[[涼州]][[刺史]]となった。しかし、涼州刺史在職中の[[271年]]、北地胡([[鮮卑]]族)の反乱によって戦死した。 |
2020年7月12日 (日) 21:33時点における版
牽 弘(けん こう、? - 271年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。魏・西晋に仕えた。冀州安平郡観津県の人。父は牽招。兄に牽嘉。甥に牽秀。
生涯
父と同じく魏に仕え、隴西太守となった。263年、蜀漢討伐が開始されると鄧艾に従い、綿竹の攻略で功績を立て、蜀漢滅亡後は戦後処理に当たった。蜀漢攻略の功績により振威将軍となった。
魏が滅亡して晋が成立すると、揚州、次いで涼州刺史となった。しかし、涼州刺史在職中の271年、北地胡(鮮卑族)の反乱によって戦死した。
牽弘が揚州刺史だった時、上司である都督揚州諸軍事の陳騫の命令に従わないことがあった。大司馬として中央に戻った陳騫は「胡烈(秦州刺史、後に異民族の反乱で戦死)と牽弘は勇敢ではあるが思慮分別に欠けるので、刺史の任を果たせないでしょう」と武帝に言上した。陳騫と牽弘が不仲であると理解した武帝は、牽弘を涼州刺史に転任させるに留まっていた。牽弘の訃報に接した武帝は、陳騫の言葉を信じなかったことを後悔したという。