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「新末後漢初」の版間の差分

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その頃の劉秀は、兄の劉縯を殺害した更始帝の側近たちに危険視され、遠征に出すことを拒否されていたが、適当な将軍がいないと[[河北省|河北]]の制圧を命じられて、外へ出る。河北には[[王郎]]、後には[[銅馬軍]]と言った勢力が現れたが、劉秀は現地の豪族と手を結び、苦戦しながらも[[24年]]に王郎を滅ぼし、銅馬軍を降し、[[楽浪郡]]を除く河北を統一した(楽浪郡はこの年に[[王調]]が自立していた)。翌[[25年]]、劉秀は皇帝位について元号を[[建武 (漢)|建武]]とし、[[洛陽]]を首都とした。配下に銅馬軍が多かったために他の勢力からは銅馬帝と呼ばれた(以後劉秀を劉秀の諡号である[[光武帝]]と呼ぶ)。
その頃の劉秀は、兄の劉縯を殺害した更始帝の側近たちに危険視され、遠征に出すことを拒否されていたが、適当な将軍がいないと[[河北省|河北]]の制圧を命じられて、外へ出る。河北には[[王郎]]、後には[[銅馬軍]]と言った勢力が現れたが、劉秀は現地の豪族と手を結び、苦戦しながらも[[24年]]に王郎を滅ぼし、銅馬軍を降し、[[楽浪郡]]を除く河北を統一した(楽浪郡はこの年に[[王調]]が自立していた)。翌[[25年]]、劉秀は皇帝位について元号を[[建武 (漢)|建武]]とし、[[洛陽]]を首都とした。配下に銅馬軍が多かったために他の勢力からは銅馬帝と呼ばれた(以後劉秀を劉秀の諡号である[[光武帝]]と呼ぶ)。


[[25年]]、赤眉軍は西進して[[関中]]を攻めた。その途中、赤眉軍は自軍にいた漢の宗族から籤引きで[[劉盆子]]を選び皇帝とした。一方、弛緩し内紛を起こした更始帝軍は敵しえず、更始帝は投降した後で殺された。しかし長安に入った赤眉軍は更始帝軍をなぞるように略奪を行い、略奪する物が無くなると東の故郷へと帰り始めた。[[27年]]、光武帝の部下である[[トウ禹|鄧禹]]は大敗するものの、[[馮異]]は鄧禹に引きずられての大敗の後、散った兵を集めて盛り返して大勝し、更に光武帝は赤眉軍の帰り道を自ら塞いで戦わずしてこれを降伏させた。
[[25年]]、赤眉軍は西進して[[関中]]を攻めた。その途中、赤眉軍は自軍にいた漢の宗族から籤引きで[[劉盆子]]を選び皇帝とした。一方、弛緩し内紛を起こした更始帝軍は敵しえず、更始帝は投降した後で殺された。しかし長安に入った赤眉軍は更始帝軍をなぞるように略奪を行い、略奪する物が無くなると東の故郷へと帰り始めた。[[27年]]、光武帝の部下である[[鄧禹]]は大敗するものの、[[馮異]]は鄧禹に引きずられての大敗の後、散った兵を集めて盛り返して大勝し、更に光武帝は赤眉軍の帰り道を自ら塞いで戦わずしてこれを降伏させた。


完全に群を抜いた勢力となった光武帝は27年に[[スイ陽区|梁]]の[[劉永 (新朝)|劉永]]・[[30年]]に[[廬江県|舒]]の[[李憲 (後漢)|李憲]]と楽浪の王調・[[32年]]に[[琅邪郡|琅邪]]の[[張歩]]といった群雄勢力を制圧し、[[36年]]に[[蜀郡|蜀]]の地で「成家」を建国していた[[公孫述]]を滅ぼして全国を統一した。
完全に群を抜いた勢力となった光武帝は27年に[[スイ陽区|梁]]の[[劉永 (新朝)|劉永]]・[[30年]]に[[廬江県|舒]]の[[李憲 (後漢)|李憲]]と楽浪の王調・[[32年]]に[[琅邪郡|琅邪]]の[[張歩]]といった群雄勢力を制圧し、[[36年]]に[[蜀郡|蜀]]の地で「成家」を建国していた[[公孫述]]を滅ぼして全国を統一した。

2020年7月12日 (日) 21:41時点における版

新末後漢初(しんまつごかんしょ)は、中国朝(8年 - 23年)が滅びて光武帝により後漢25年 - 220年)が栄えるまでの便宜的な時代区分。中国では王莽の新を「莽漢」、劉玄の漢(更始帝)を「玄漢」と称する場合もある(中央政権を打倒しているが、赤眉軍の劉盆子は正式な王朝および皇帝とされていない)。

王莽の政治

前漢から簒奪して帝位についた王莽は、儒教において理想とされる代の政治へと復古すると称し、井田法を真似して全国の田地を全て国有にすることを決めた。また貨幣を新たに改鋳するなどの政策を打ち出した。しかしこれらの政策は当時の現実を無視したものであり、貨幣の度重なる改鋳は経済を混乱させ、地方に広い土地を所有する豪族たちの利益を損ない、大きな反発を受けた。

また外交政策でも、過度の中華思想から、匈奴高句麗に渡していた号を取り上げて、「降奴服于」「下句麗侯」などという称号を押し付けて彼らの怒りを買い、離反を招いた。

赤眉の乱

ここに至って、各地に農民反乱が続出する。その嚆矢となったのが琅邪郡海曲県(現在の山東省日照市東港区)の呂母と呼ばれる老婆である。彼女の息子は県庁に勤めていたが、些細なことで県宰(県長官)により捕らえられて死刑に処された。17年、これを恨んだ呂母は金を使って人を集めて、海上にて集結し県宰を襲って殺した。本懐を遂げた呂母は没するが、一度集められた雑軍たちは解散するわけにはいかず、樊崇といった者たちを首領として山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となる。この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことから、この名前がある。

一方、呂母の乱の少し後に王匡王鳳と言ったものたちが緑林山(現在の湖北省荊門市京山市)を根拠として農民を吸収して反乱軍を指揮した。こちらは緑林軍と呼ばれる。しかしこの軍の内部で疫病が流行したために一つの所にいることが出来なくなり、21年には分裂し、片方は南下して下江軍と呼ばれるようになり、もう片方は北上して南陽に入った。こちらは新市軍と呼ばれるようになる。新市軍は南陽の豪族であり、宗族でもある劉氏と手を結び、再び勢力を盛り返した。この劉氏の中に劉秀(後の光武帝)と劉秀の兄の劉縯がいる。分裂した緑林軍は再び合流して、23年に劉氏の中の劉玄を擁立し、元号を新しくして更始とし、劉玄は皇帝となった。これ以後の劉玄は更始帝と呼ばれる。

王莽は当然これらの反乱軍に対して討伐軍を送る。しかし22年廉丹王匡(緑林軍の王匡とは別人)を将軍とする討伐軍は、赤眉軍に敗れた。赤眉軍が上述の眉に赤を塗ったのはこの戦いからである。更始帝軍は南陽の中心都市であるを包囲し、それに対する王莽の討伐軍は宛の近くの昆陽を包囲するが、劉秀の活躍により打ち破られた(昆陽の戦い)。この後の王莽は相次ぐ敗戦に錯乱してしまったようで、「昔から大きな災いの時には大きな哭き声で呪いをしたものだ。天に向かって哭いて救いを求めるのが良い。」などといった進言を大真面目に取り上げて、人数を集めて哭き声が大きかった者は官僚として取り立てると布告し、それで取り立てられた者が5000人になったと言う。この有様に全国に反王莽の群雄が起こり、王莽は長安に乱入した群盗により殺された。

光武帝の争覇戦

王莽が殺された後に更始帝軍は関中に入って長安を制圧した。天下が更始帝に治められると見た赤眉軍はこれに服属することを約束した。しかし長安に入った更始帝は一気に堕落して、財宝をかき集めて日夜宴会を開き、政治は全く省みることがなかった。赤眉軍は、この有様を見て独自路線を歩むことに決めた。

その頃の劉秀は、兄の劉縯を殺害した更始帝の側近たちに危険視され、遠征に出すことを拒否されていたが、適当な将軍がいないと河北の制圧を命じられて、外へ出る。河北には王郎、後には銅馬軍と言った勢力が現れたが、劉秀は現地の豪族と手を結び、苦戦しながらも24年に王郎を滅ぼし、銅馬軍を降し、楽浪郡を除く河北を統一した(楽浪郡はこの年に王調が自立していた)。翌25年、劉秀は皇帝位について元号を建武とし、洛陽を首都とした。配下に銅馬軍が多かったために他の勢力からは銅馬帝と呼ばれた(以後劉秀を劉秀の諡号である光武帝と呼ぶ)。

25年、赤眉軍は西進して関中を攻めた。その途中、赤眉軍は自軍にいた漢の宗族から籤引きで劉盆子を選び皇帝とした。一方、弛緩し内紛を起こした更始帝軍は敵しえず、更始帝は投降した後で殺された。しかし長安に入った赤眉軍は更始帝軍をなぞるように略奪を行い、略奪する物が無くなると東の故郷へと帰り始めた。27年、光武帝の部下である鄧禹は大敗するものの、馮異は鄧禹に引きずられての大敗の後、散った兵を集めて盛り返して大勝し、更に光武帝は赤眉軍の帰り道を自ら塞いで戦わずしてこれを降伏させた。

完全に群を抜いた勢力となった光武帝は27年に劉永30年李憲と楽浪の王調・32年琅邪張歩といった群雄勢力を制圧し、36年の地で「成家」を建国していた公孫述を滅ぼして全国を統一した。

群雄一覧

この争乱時に、中央権力が届かぬため地方で兵力を持つ者、太守や豪族等がその力を以て独自の勢力圏を持った。通常、軍閥と言われる。彼らが群れて統一政権不在の状況を春秋戦国時代から群雄割拠と呼ぶ。群雄はその元の意味から複数形であるが、「群雄割拠時の群雄の一人」の意味で単数形で扱われることもある。主だった群雄を挙げる。光武帝に降った竇融と、匈奴の中に逃げた盧芳を除いて、光武帝に滅ぼされ、後漢は統一政権時代に入った。

新末後漢初の諸勢力
勢力名(地域) 存在年 拠点 初代君主 最後の君主 滅亡原因
漢(緑林軍 23〜25 洛陽長安 劉玄 劉玄 赤眉軍に敗退
漢(赤眉軍 25〜27 長安 劉盆子 劉盆子 劉秀軍に降伏、解散
成家 25〜36 成都 公孫述 公孫述 劉秀軍の成都包囲、開城
25〜29 睢陽 劉永 劉紆 劉秀軍による郯城陥落