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史書に名が現れるのは、[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])2月であるため、それ以前の事跡は不明である。そのため、新市軍、平林軍、下江軍、舂陵軍のいずれの出身か、あるいはそれ以外の勢力の出身かも不明である。更始帝が[[長安]]に遷都した際に、[[尚書]]に任命されていた胡殷は、隨王に封じられた。
史書に名が現れるのは、[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])2月であるため、それ以前の事跡は不明である。そのため、新市軍、平林軍、下江軍、舂陵軍のいずれの出身か、あるいはそれ以外の勢力の出身かも不明である。更始帝が[[長安]]に遷都した際に、[[尚書]]に任命されていた胡殷は、隨王に封じられた。


翌更始3年([[25年]])、劉秀(後の[[光武帝]])配下の[[トウ禹|鄧禹]]軍と[[赤眉軍]]が長安を目指して西進してくると、衛尉の[[張ゴウ|張卬]]が更始政権の諸将に対し、「南陽郡に引き返すべきだ。敗北しても、再び緑林の生活に戻ればいい」旨を主張し、多くの将の同意を得た。胡殷は、[[王匡 (更始)|王匡]]、張卬、[[廖湛]]、[[申屠建]]と共に、いったん南陽へ逃れることを更始帝に進言したが、更始帝は拒否した。
翌更始3年([[25年]])、劉秀(後の[[光武帝]])配下の[[鄧禹]]軍と[[赤眉軍]]が長安を目指して西進してくると、衛尉の[[張ゴウ|張卬]]が更始政権の諸将に対し、「南陽郡に引き返すべきだ。敗北しても、再び緑林の生活に戻ればいい」旨を主張し、多くの将の同意を得た。胡殷は、[[王匡 (更始)|王匡]]、張卬、[[廖湛]]、[[申屠建]]と共に、いったん南陽へ逃れることを更始帝に進言したが、更始帝は拒否した。


ここで胡殷は、張卬、廖湛と共に兵変を実行し、更始帝は姻戚の将[[趙萌]]らが駐屯している新豊([[京兆尹]])へ逃げた。張卬は、新豊から逃走してきた王匡の軍を加えたが、更始帝、趙萌、[[李松]](更始政権の[[丞相]])の反撃に遭い、激戦の末に敗走した。進退窮まった胡殷らは、赤眉軍に降伏してこれを長安まで導き、同年9月、長安は陥落して更始政権は滅亡した。
ここで胡殷は、張卬、廖湛と共に兵変を実行し、更始帝は姻戚の将[[趙萌]]らが駐屯している新豊([[京兆尹]])へ逃げた。張卬は、新豊から逃走してきた王匡の軍を加えたが、更始帝、趙萌、[[李松]](更始政権の[[丞相]])の反撃に遭い、激戦の末に敗走した。進退窮まった胡殷らは、赤眉軍に降伏してこれを長安まで導き、同年9月、長安は陥落して更始政権は滅亡した。

2020年7月12日 (日) 21:44時点における版

胡 殷(こ いん、? - 25年)は、中国代、更始帝(劉玄)の重臣。

事跡

姓名 胡殷
時代
生没年 生年不詳 - 25年建世1年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 尚書
爵位・号等 隨王〔更始〕
陣営・所属等 更始帝劉盆子
家族・一族 〔不詳〕

史書に名が現れるのは、更始2年(24年)2月であるため、それ以前の事跡は不明である。そのため、新市軍、平林軍、下江軍、舂陵軍のいずれの出身か、あるいはそれ以外の勢力の出身かも不明である。更始帝が長安に遷都した際に、尚書に任命されていた胡殷は、隨王に封じられた。

翌更始3年(25年)、劉秀(後の光武帝)配下の鄧禹軍と赤眉軍が長安を目指して西進してくると、衛尉の張卬が更始政権の諸将に対し、「南陽郡に引き返すべきだ。敗北しても、再び緑林の生活に戻ればいい」旨を主張し、多くの将の同意を得た。胡殷は、王匡、張卬、廖湛申屠建と共に、いったん南陽へ逃れることを更始帝に進言したが、更始帝は拒否した。

ここで胡殷は、張卬、廖湛と共に兵変を実行し、更始帝は姻戚の将趙萌らが駐屯している新豊(京兆尹)へ逃げた。張卬は、新豊から逃走してきた王匡の軍を加えたが、更始帝、趙萌、李松(更始政権の丞相)の反撃に遭い、激戦の末に敗走した。進退窮まった胡殷らは、赤眉軍に降伏してこれを長安まで導き、同年9月、長安は陥落して更始政権は滅亡した。

しかし同年、胡殷は王匡と共に、光武帝(劉秀)が関中に派遣した尚書宗広に降伏し、これに従って洛陽の光武帝の下に向かうことになった。ところが、変心して安邑(河東郡)で逃亡を図ったために、宗広に捕えられて、胡殷と王匡は処刑された。

参考文献

  • 後漢書』列伝1劉玄伝
  • 同列伝6鄧禹伝

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