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=== 第2代大司徒 ===
=== 第2代大司徒 ===
[[光武帝]](劉秀)が即位すると、名臣としての声望により伏湛を招聘し、尚書に任命して旧制度の制定を主管させた。また、西征していた[[司徒|大司徒]][[トウ禹|鄧禹]]も、伏湛は宰相の任に堪えられると光武帝に進言したため、伏湛は司直兼行大司徒事に任命されている。光武帝が親政するときには、伏湛は常に留守を担い、各機関を総理した。[[建武 (漢)|建武]]3年([[27年]])3月、大司徒を辞任した鄧禹の後任として伏湛がその地位に就き、あわせて陽都侯に封じられた。
[[光武帝]](劉秀)が即位すると、名臣としての声望により伏湛を招聘し、尚書に任命して旧制度の制定を主管させた。また、西征していた[[司徒|大司徒]][[鄧禹]]も、伏湛は宰相の任に堪えられると光武帝に進言したため、伏湛は司直兼行大司徒事に任命されている。光武帝が親政するときには、伏湛は常に留守を担い、各機関を総理した。[[建武 (漢)|建武]]3年([[27年]])3月、大司徒を辞任した鄧禹の後任として伏湛がその地位に就き、あわせて陽都侯に封じられた。


赤眉軍を降伏させた後に、光武帝は漁陽郡の彭寵を親征しようとした。これに対して伏湛は、洛陽から余りにも遠い漁陽を親征するのは、浪費の割りに得られる成果も乏しく、むしろ近隣の安寧を図るべきである旨進言し、光武帝もこれを容れて漁陽遠征を取りやめている。
赤眉軍を降伏させた後に、光武帝は漁陽郡の彭寵を親征しようとした。これに対して伏湛は、洛陽から余りにも遠い漁陽を親征するのは、浪費の割りに得られる成果も乏しく、むしろ近隣の安寧を図るべきである旨進言し、光武帝もこれを容れて漁陽遠征を取りやめている。

2020年7月12日 (日) 21:45時点における版

伏 湛(ふく たん、? - 37年)は、中国前漢時代から後漢時代初期にかけての政治家。恵公徐州琅邪郡東武県(山東省濰坊市諸城市)の人。済南の伏生と呼ばれた伏勝の9世の子孫である。父の伏理は名儒者として知られ、成帝に『詩経』を教え、高密太傅となり、一学派を形成した。子は伏隆・伏咸・伏翕。また、伏湛の子孫には『三国志』や小説『三国志演義』で知られる後漢末の伏完、その娘の伏寿(伏皇后)がいる。

事跡

初期の事跡

姓名 伏湛
時代 前漢時代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 37年建武13年)
字・別号 恵公(字)
本貫・出身地等 徐州琅邪郡東武県
職官 博士弟子〔前漢〕→繍衣執法〔新〕

→後隊属正〔新〕
→平原太守〔更始〕→尚書〔後漢〕
→司直兼行大司徒事〔後漢〕
→大司徒〔後漢〕 

爵位・号等 陽都侯〔後漢〕→不其侯〔後漢〕
陣営・所属等 成帝哀帝平帝孺子嬰

王莽更始帝光武帝

家族・一族 父:伏理 子:伏隆 伏咸 伏翕

伏湛は、若くして父を継いで儒者となり、数百人に教えた。成帝の時代に、父親の実績により、博士弟子に任命された。5度の昇進の後、王莽が皇帝となったときには、繍衣執法(新制での繍衣御史)として大奸の督察を命じられ、後に後隊属正(新制での河南郡都尉)に任命された。

更始帝が即位すると、伏湛はその配下に移り、平原太守に任命された。この時、門下督(伏湛の家事を担当していた者)が、伏湛に挙兵の相談を持ちかけたが、伏湛は衆を惑わす行為として、門下督を直ちに誅殺して梟首とした。これにより郡内は安定したという。

第2代大司徒

光武帝(劉秀)が即位すると、名臣としての声望により伏湛を招聘し、尚書に任命して旧制度の制定を主管させた。また、西征していた大司徒鄧禹も、伏湛は宰相の任に堪えられると光武帝に進言したため、伏湛は司直兼行大司徒事に任命されている。光武帝が親政するときには、伏湛は常に留守を担い、各機関を総理した。建武3年(27年)3月、大司徒を辞任した鄧禹の後任として伏湛がその地位に就き、あわせて陽都侯に封じられた。

赤眉軍を降伏させた後に、光武帝は漁陽郡の彭寵を親征しようとした。これに対して伏湛は、洛陽から余りにも遠い漁陽を親征するのは、浪費の割りに得られる成果も乏しく、むしろ近隣の安寧を図るべきである旨進言し、光武帝もこれを容れて漁陽遠征を取りやめている。

伏湛は、緊急事態であろうとも文徳が必要であり、礼楽が政治の教化における最重要問題であると考えていた。そこで建武5年(29年)、郷飲酒礼(郷大夫が郷村の人を集めて、賢者を尊び老人を養う儀式を行う酒宴)を慣行(ないしは制度)とするよう奏上し、施行されている。この年の冬に、光武帝が斉の張歩を親征し、伏湛は洛陽を留守した。ところがその間に、高廟で挙行する蒸祭をめぐって、司隷侯と河南尹が廟内で口論したが、伏湛は光武帝帰還後もこれを報告しなかったために、罪に問われて罷免された。翌建武6年(30年)、伏湛は不其侯に封じられ、邑3,600戸を有し、領土に派遣されている。

建武13年(37年)夏、伏湛は洛陽に召還されたが、光武帝主宰の宴席上で暑さにあたり、それが原因で病没した。

人物像・逸話

伏湛は孝行と友情に厚い人柄として知られていた。平原太守赴任当時、兵乱が激しかったが、伏湛は学問を教えることを止めようとはしなかった。また、平原の他の民衆と同様に粗末な食事に甘んじ、俸禄は故郷に全て送付し、客人は100家余りとなった。

伏湛の名声は青州・徐州を中心に幅広く知れ渡り、また、旧赴任地の平原周辺でも同様であった。ある時、獲策軍(河北の地方軍)の部将徐少(徐異卿)は、漢軍の攻撃を受けても降らなかったが、「司徒伏公になら降ります」と言い出してくる。光武帝が伏湛を平原に派遣すると、果たして徐少は降伏した。

参考文献

  • 後漢書』列伝16伏湛伝
  • 同本紀1上光武帝紀上

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