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「成翊世」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
若くして学問を好み、道術に精通した。[[平原郡]]の吏をつとめていたが、太后の[[トウ綏|鄧綏]]に政権を返すよう上書して罪に問われた。太后の死後、[[杜根]]とともに[[安帝 (漢)|安帝]]に召し出され尚書郎に抜擢された。[[124年]]([[延光]]3年)<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>、[[中常侍]]の樊豊や安帝の乳母の[[王聖 (漢)|王聖]]らが[[皇太子]][[順帝 (漢)|劉保]]を誣告して、太子は廃位されて済陰王に落とされた。翊世は上書してその冤罪を訴え、樊豊や王聖らの誣告であることを述べたが、安帝は聞き入れなかった。免官されて本郡に帰された。翌年、済陰王劉保が順帝として即位すると、[[司空]]の[[張晧]]が翊世を召し出し、議郎に推薦したが、翊世は応じなかった。尚書僕射の[[虞ク|虞詡]]がまた上書して翊世を推薦し、召し出して議郎に任じた。後に[[尚書令]]の[[左雄]]や僕射の[[郭虔]]が翊世を推挙して尚書とした。
若くして学問を好み、道術に精通した。[[平原郡]]の吏をつとめていたが、太后の[[鄧綏]]に政権を返すよう上書して罪に問われた。太后の死後、[[杜根]]とともに[[安帝 (漢)|安帝]]に召し出され尚書郎に抜擢された。[[124年]]([[延光]]3年)<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>、[[中常侍]]の樊豊や安帝の乳母の[[王聖 (漢)|王聖]]らが[[皇太子]][[順帝 (漢)|劉保]]を誣告して、太子は廃位されて済陰王に落とされた。翊世は上書してその冤罪を訴え、樊豊や王聖らの誣告であることを述べたが、安帝は聞き入れなかった。免官されて本郡に帰された。翌年、済陰王劉保が順帝として即位すると、[[司空]]の[[張晧]]が翊世を召し出し、議郎に推薦したが、翊世は応じなかった。尚書僕射の[[虞ク|虞詡]]がまた上書して翊世を推薦し、召し出して議郎に任じた。後に[[尚書令]]の[[左雄]]や僕射の[[郭虔]]が翊世を推挙して尚書とした。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年7月12日 (日) 21:53時点における版

成翊世(せい よくせい、生没年不詳)は、後漢官僚は季明。

経歴

若くして学問を好み、道術に精通した。平原郡の吏をつとめていたが、太后の鄧綏に政権を返すよう上書して罪に問われた。太后の死後、杜根とともに安帝に召し出され尚書郎に抜擢された。124年延光3年)[1]中常侍の樊豊や安帝の乳母の王聖らが皇太子劉保を誣告して、太子は廃位されて済陰王に落とされた。翊世は上書してその冤罪を訴え、樊豊や王聖らの誣告であることを述べたが、安帝は聞き入れなかった。免官されて本郡に帰された。翌年、済陰王劉保が順帝として即位すると、司空張晧が翊世を召し出し、議郎に推薦したが、翊世は応じなかった。尚書僕射の虞詡がまた上書して翊世を推薦し、召し出して議郎に任じた。後に尚書令左雄や僕射の郭虔が翊世を推挙して尚書とした。

脚注

  1. ^ 後漢書』安帝紀

伝記資料