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== 略伝 ==
== 略伝 ==
外祖父の家は古銅器の収蔵に富み、子どもの時より入り浸って研究し、やがて[[殷]]・[[周代]]の銅器の銘文、[[秦]]・[[漢]]の古印に深い造詣を得る。書は[[趙孟フ|趙孟頫]]や[[趙之謙]]に学び、[[篆書]]・[[隷書]]・[[楷書]]・[[草書]]のいずれも優れた。画は[[花鳥画]]を得意としたが、特に八駿という馬の絵は一頭につき黄金一笏と言われた。篆刻ははじめ[[中国の篆刻家一覧|浙派]]に学び、中年以降は[[トウ石如|鄧石如]]や[[趙之謙]]に師法し秦・漢印を範とした。当時、[[呉昌碩]]と並び称され、名士がこぞって印を求めた。[[チョ徳彝|褚徳彝]]『金石学録続補』・[[葉為銘]]『廣印人伝』に賞賛されている。また古文字研究の分野でも著述を残した。篆刻の門弟に張魯盦・陳巨来・方介堪・葉露園、画の門弟に徐邦達・戈湘嵐・趙鶴琴などが育った。
外祖父の家は古銅器の収蔵に富み、子どもの時より入り浸って研究し、やがて[[殷]]・[[周代]]の銅器の銘文、[[秦]]・[[漢]]の古印に深い造詣を得る。書は[[趙孟フ|趙孟頫]]や[[趙之謙]]に学び、[[篆書]]・[[隷書]]・[[楷書]]・[[草書]]のいずれも優れた。画は[[花鳥画]]を得意としたが、特に八駿という馬の絵は一頭につき黄金一笏と言われた。篆刻ははじめ[[中国の篆刻家一覧|浙派]]に学び、中年以降は[[石如]]や[[趙之謙]]に師法し秦・漢印を範とした。当時、[[呉昌碩]]と並び称され、名士がこぞって印を求めた。[[チョ徳彝|褚徳彝]]『金石学録続補』・[[葉為銘]]『廣印人伝』に賞賛されている。また古文字研究の分野でも著述を残した。篆刻の門弟に張魯盦・陳巨来・方介堪・葉露園、画の門弟に徐邦達・戈湘嵐・趙鶴琴などが育った。


==[[印譜]]==
==[[印譜]]==

2020年7月12日 (日) 21:59時点における版

趙叔孺
プロフィール
出生: 1874年同治13年)
死去: 1945年民国34年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 浙江省寧波府鄞県
職業: 篆刻家・書家・画家
各種表記
繁体字 趙叔孺
簡体字 赵叔孺
拼音 Zhào Shūrú
ラテン字 Chao Shu-ju
和名表記: ちょう しゅくじゅ
発音転記: ジャオ シュールー
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趙 叔孺(ちょう しゅくじゅ)は清末民初篆刻家書家画家である。時棡紉萇、叔孺はで晩年は二弩老人と称した。

略伝

外祖父の家は古銅器の収蔵に富み、子どもの時より入り浸って研究し、やがて周代の銅器の銘文、の古印に深い造詣を得る。書は趙孟頫趙之謙に学び、篆書隷書楷書草書のいずれも優れた。画は花鳥画を得意としたが、特に八駿という馬の絵は一頭につき黄金一笏と言われた。篆刻ははじめ浙派に学び、中年以降は鄧石如趙之謙に師法し秦・漢印を範とした。当時、呉昌碩と並び称され、名士がこぞって印を求めた。褚徳彝『金石学録続補』・葉為銘『廣印人伝』に賞賛されている。また古文字研究の分野でも著述を残した。篆刻の門弟に張魯盦・陳巨来・方介堪・葉露園、画の門弟に徐邦達・戈湘嵐・趙鶴琴などが育った。

  • 『二弩精舎印譜』1941年
  • 『二弩精舎蔵印』1897年
  • 『二弩精舎印賞』

研究・著作

  • 『漢印分韻補』6巻
  • 『古印文字韻林』6巻

出典

  • 銭君匋・葉潞淵『篆刻の歴史と鑑賞』高畑常信訳 秋山書店<秋山叢書>、昭和57年。
  • 銭君匋共著『印と印人』北川博邦・蓑毛政雄・佐野栄輝共訳 二玄社<藝林叢書>選訳Ⅰ、1982年。