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「章帝 (漢)」の版間の差分

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建初5年([[80年]])春2月、日食が起き、章帝は詔勅を出した。3月、章帝は詔勅を出した。荊、豫の諸郡の兵士が武陵漊中叛蛮を討ち破った。夏5月、章帝は詔勅を出した。太傅の趙憙が死去した。この年に西域仮司馬の班超は疏勒を撃ち、これを破った。
建初5年([[80年]])春2月、日食が起き、章帝は詔勅を出した。3月、章帝は詔勅を出した。荊、豫の諸郡の兵士が武陵漊中叛蛮を討ち破った。夏5月、章帝は詔勅を出した。太傅の趙憙が死去した。この年に西域仮司馬の班超は疏勒を撃ち、これを破った。


建初6年([[81年]])春2月、琅邪王の[[劉京]]が死去した。夏5月、趙王の[[劉栩]]が死去した。6月、太尉の鮑昱が死去した。日食があった。秋7月、大司農の[[トウ彪|鄧彪]]を太尉に任命した。
建初6年([[81年]])春2月、琅邪王の[[劉京]]が死去した。夏5月、趙王の[[劉栩]]が死去した。6月、太尉の鮑昱が死去した。日食があった。秋7月、大司農の[[鄧彪]]を太尉に任命した。


建初7年([[82年]])春正月、沛王の[[劉輔]]、済南王の[[劉康 (後漢)|劉康]]、東平王の[[劉蒼]]、中山王の劉焉、東海王の[[劉政 (東海王)|劉政]]、琅邪王の劉宇が来朝した。夏6月、皇太子の劉慶を廃立し清河王とし、代わりに皇子の劉肇を皇太子とした。広平王の[[劉羨]]を西平王に改封した。秋8月に先帝を祭り、9月から冬12月にかけて巡察を実施し、河内や長安に行幸した。
建初7年([[82年]])春正月、沛王の[[劉輔]]、済南王の[[劉康 (後漢)|劉康]]、東平王の[[劉蒼]]、中山王の劉焉、東海王の[[劉政 (東海王)|劉政]]、琅邪王の劉宇が来朝した。夏6月、皇太子の劉慶を廃立し清河王とし、代わりに皇子の劉肇を皇太子とした。広平王の[[劉羨]]を西平王に改封した。秋8月に先帝を祭り、9月から冬12月にかけて巡察を実施し、河内や長安に行幸した。

2020年7月12日 (日) 22:08時点における版

章帝 劉炟
後漢
第3代皇帝
王朝 後漢
在位期間 75年9月5日 - 88年4月9日
都城 雒陽(洛陽
姓・諱 劉炟
諡号 孝章皇帝
廟号 粛宗
生年 建武中元2年(57年
没年 章和2年2月30日
88年4月9日
明帝
賈貴人
后妃 竇皇后
陵墓 敬陵
年号 建初76年 - 84年
元和(84年 - 87年
章和(87年 - 88年)

章帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。

生涯

60年永平3年)に3歳で皇太子に立てられ、75年(永平18年)に父の明帝が死去すると、19歳で即位した。同時に嫡母である馬皇后光武帝の有力部将馬援の娘)が皇太后に立てられて後見した。馬皇太后は身を慎み、実家の馬氏一族が高位に取り立てられることを拒んだので、章帝の時代には、後漢王朝の宿弊となった外戚の専権が表に現れることはなかった。生母の賈貴人は、明帝の正妻である馬皇后と従姉妹同士で仲が良かったといわれる。

父の明帝が法治政治を行ったのに対し、章帝は幼少の頃から儒学を好み、儒学の徳目に適った寛容な徳治政治を敷いた。そのため、経済や文化は大きく発展した。

78年(建初3年)、竇氏を皇后に立てる。

79年(建初4年)、自ら詔を下して宮中の白虎観に儒者を集め、五経のテキストの異同を議論させた。自身も会議に臨席するほど熱を入れて取り組み、史臣班固に命じてこの会議をもとに古今の学説をまとめた『白虎通義』を編集させた。

西域との交通は、の滅亡後から後漢の初め頃まで一時途絶えていたが、明帝のときに再び本格的な進出が始まった。章帝の時代も匈奴とそれに与する西域諸国との戦いが続き、章和元年(87年)には、班超らの活躍により、長らく漢に叛いていた莎車を服属させることに成功した。

馬皇太后の死後(79年(建初4年))、皇后の竇氏は子がなかったため、皇太子劉慶の生母宋貴人と別の皇子劉肇を生んだ梁貴人を憎んでおり、讒言して2人とも死に追いやった。劉肇は皇后の養子となった。

82年(建初7年)、皇太子劉慶を廃して清河王とし、皇子劉肇を皇太子に立てる。

88年(章和2年)、32歳で死去した。その後、10歳の劉肇が和帝として即位し、和帝の擁立を取り仕切った竇氏は皇太后として幼い皇帝に代わって政治を執り、その実家の竇固を初めとした竇氏一族が権勢を振るうようになった。こうして後漢は、外戚によって政治を左右される時代に入り、支配体制に揺らぎが生じるようになった。

子孫

後漢はその時々に権勢を振るった外戚が、幼児や少年を皇帝として擁立することが繰り返したため、直系の皇位がしばしば断絶し、和帝、安帝少帝質帝桓帝霊帝と、傍系から皇帝を立てることが繰り返されたが、いずれも皇帝への擁立は章帝の子孫から行われている。

章帝の男子には、馬皇太后の親族である宋貴人を母とし、生まれてすぐに皇太子に立てられた劉慶、和帝として即位した劉肇の他に、伉、全、寿、開、淑、万歳の8子がいた。章帝が最初に立てた皇太子劉慶は、側室の宋貴人が生んだ男子だった。その後、竇皇后が宋貴人と、劉肇を生んだ梁貴人を死に追いやった。建初7年(82年)、5歳であった劉慶は廃され清河王とされ、劉肇が皇太子となる。章和2年(88年)、章帝は亡くなり、劉肇が即位する(和帝)。しかし、このような経緯があっても、和帝は皇太子のころから兄劉慶との兄弟仲が深くいつも行動をともにしており、即位後も兄を身近に置いて私事を議すほどで、劉慶も皇帝となった弟を立てて忠実に仕えた。和帝の死の翌年、和帝の子の殤帝が没すると、劉慶の長男劉祜が和帝の未亡人で実権を握った鄧皇太后によって皇帝に擁立され、安帝となる。

また、その他の皇子もみな王に封ぜられて諸侯王となるが、済北王に封ぜられた劉寿の子から安帝の死後に擁立された少帝、勃海王に封ぜられた劉伉の曾孫から安帝の孫沖帝が3歳で死去したあと擁立された質帝、河間王に封ぜられた劉開の子孫から毒殺された質帝に代わり皇帝に立てられた桓帝、霊帝の2帝が出た。

年譜

明帝は、馬貴人に子がない故に、命じて賈氏(馬貴人の前母の姉の娘)の生んだ劉炟を養わせる。

永平3年(60年)に、劉炟は3歳で皇太子に立てられた(馬貴人は同年に皇后に立てられた)。

永平18年(75年)秋8月、父の明帝が死去し、劉炟は19歳で即位した(章帝)。養母である馬皇后を皇太后とし、明帝を顕節陵に葬った。冬10月、大赦を実施すると共に詔勅を出し、太尉であった趙憙を太傅とし、司空であった牟融を太尉・録尚書事とした。11月、蜀郡太守の第五倫を司空とした。征西将軍の耿秉に命じて酒泉に駐屯させ、酒泉太守の段彭を遣わせて戊己校尉の耿恭を救わせた。この年に牛疫が発生し、また京師と三州に大きな旱があったため、詔を出し、兗、豫、徐州において施しを実行した。

建初元年(76年)春正月、前年に起きた疫病と災害の対策の詔勅を出した。酒泉太守の段彭が車師を討ち大いに破った。戊己校尉の官を罷免した。2月、武陵の漊中蛮が反乱を起こした。3月、山陽と東平で地震が起きた。章帝は詔勅を出し人材を募った。9月、永昌哀牢夷が反乱を起こした。冬10月、武陵郡の兵士が叛蛮を討ち之を破り降参させた。11月、阜陵王の劉延が謀反し、阜陵侯に降格された。

建初2年(77年)春3月、章帝は詔勅を出した。伊吾廬の屯兵を取りやめた。永昌、越巂、益州の三郡の民が哀牢夷を討ち、これを破り平定した。夏4月、章帝は詔勅を2回出した。6月、焼当羌が反乱を起こし、金城太守の郝崇が討伐したが敗れ、羌は漢陽を侵略した。秋8月、車騎将軍代行の馬防が派遣されこれを討ち平定した。

建初3年(78年)3月、貴人であった竇氏を皇后とした。夏4月、馬防が焼当羌を臨洮において破った。閏月、西域仮司馬の班超が姑墨を撃ち大いに破った。冬12月、馬防を正式に車騎将軍とした。武陵の漊中蛮が叛いた。

建初4年(79年)春2月、太尉の牟融が死去した。夏4月、皇子の劉慶を皇太子とした。鉅鹿王の劉恭を江陵王に、汝南王の劉暢を梁王に、常山王の劉昞を淮陽王にそれぞれ改封し皇子の劉伉を千乗王に、劉全を平春王とした。5月、車騎将軍の馬防が罷免され、司徒の鮑昱を太尉に任命し、南陽太守の桓虞を司徒に任命した。6月、皇太后の馬氏が死去し、明徳皇后と諡し秋7月に葬った。冬、牛大疫があった。11月に章帝は詔勅を出した。

建初5年(80年)春2月、日食が起き、章帝は詔勅を出した。3月、章帝は詔勅を出した。荊、豫の諸郡の兵士が武陵漊中叛蛮を討ち破った。夏5月、章帝は詔勅を出した。太傅の趙憙が死去した。この年に西域仮司馬の班超は疏勒を撃ち、これを破った。

建初6年(81年)春2月、琅邪王の劉京が死去した。夏5月、趙王の劉栩が死去した。6月、太尉の鮑昱が死去した。日食があった。秋7月、大司農の鄧彪を太尉に任命した。

建初7年(82年)春正月、沛王の劉輔、済南王の劉康、東平王の劉蒼、中山王の劉焉、東海王の劉政、琅邪王の劉宇が来朝した。夏6月、皇太子の劉慶を廃立し清河王とし、代わりに皇子の劉肇を皇太子とした。広平王の劉羨を西平王に改封した。秋8月に先帝を祭り、9月から冬12月にかけて巡察を実施し、河内や長安に行幸した。

建初8年(83年)春正月、東平王の劉蒼が死去した。夏6月、北匈奴が降参した。冬12月、東へ巡狩を実行し、陳留、梁国、淮陽、潁陽を巡った。この年に京師と郡国に螟が発生した。

元和元年(84年)春正月、中山王の劉焉が来朝した。日南徼外の蛮夷が生犀と白雉を献じた。済陰王の劉長が死去した。2月、章帝は詔勅を出した。夏4月、東平国を分割して、東平憲王(劉蒼)の子の劉尚を任城王とした。6月、沛王の劉輔が死去した。秋7月、章帝は詔勅を出した。8月、太尉の鄧彪が罷免され、大司農の鄭弘が太尉となった。章帝は詔勅を出し、南へ巡狩した。9月、東平王の劉忠が死去した。冬10月、章帝は江陵まで行幸し、廬江太守に命令して南嶽を祀らせ、長沙、零陵太守に命令して長沙定王、舂陵節侯、鬱林府君を祀らせた。帰還する途中、宛に立ち寄った。11月、章帝の車駕は都に帰還した。12月、章帝は詔勅を出した。

元和2年(85年)春正月、章帝は詔勅を出した。2月、『四分暦』を初めて用いた。章帝は詔勅を出し、豊作を祈願した。東方へ巡狩し、定陶において章帝自ら耕作を実行した。詔勅を出した。済南へ行幸する前、再び詔勅を出した。3月、魯国に行幸し、東海恭王の陵を祀った。闕里に於いて孔子と七十二人の弟子を祀り、施しを行った。東平に行幸し、憲王の陵を祀った。使者を遣わして定陶太后と恭王陵を祀った。東阿に行幸し、太行山に登り、天井関へ至った。夏4月、章帝の車駕は都に帰還した。5月、章帝は詔勅を出し、施しを実行した。廬江郡を改めて六安国を置き、江陵を再び南郡に戻した。江陵王の劉恭を六安王に改封した。秋7月、章帝は詔勅を出した。9月、章帝は詔勅を出した。済南王の劉康、中山王の劉焉を祭りに参加させた。冬11月、日南に至って、初めて関梁を閉じた。

元和3年(86年)春正月、章帝は詔勅を出した。北へ巡狩し、済南王の劉康、中山王の劉焉、西平王の劉羨、六安王の劉恭、楽成王の劉党、淮陽王の劉昞、任城王の劉尚、沛王の劉定が皆従った。懐に於いて章帝は自ら耕した。2月、章帝は常山、魏郡、清河、鉅鹿、平原、東平郡の太守と相に布告を出した。中山に行幸し、使者を遣わせて北嶽を祀った。長城を出た。元氏にもどり、光武帝と顕宗を県舍正堂に於いて祀り、明日に又顕宗を始生堂で祀り、皆で奏楽した。3月、高邑の令に命じて光武帝を即位壇に於いて祀らせた。元氏に七年の徭役を復した。趙に行幸した。霊寿に於いて房山を祀った。章帝の車駕は都にもどった。夏4月、太尉の鄭弘が免職となり、大司農の宋田が太尉となった。5月、司空の第五倫が罷免され、太僕の袁安が司空となった。秋8月、安邑に行幸し、塩池を観覧した。9月、自ら安邑に至った。冬10月、北海王の劉基が死去した。焼当羌が謀叛し、隴西を侵略した。この年、西域長史の班超が疏勒の王を撃ち、これを斬った。

章和元年(87年)春3月、護羌校尉の傅育は叛いた羌を追撃したが、戦死した。6月、司徒の桓虞が免職となった。司空の袁安が司徒となり、光禄勲の任隗が司空となった。秋7月、斉王の劉晃が有罪となり、蕪湖侯に降格された。淮陽王の劉昞が死去した。鮮卑が北単于を撃破し、これを斬った。焼当羌が金城に侵略し、護羌校尉の劉盱が之を討ち、その渠帥を斬った。章帝は詔勅を出した。8月、章帝は南へ巡狩した。使者を遣わして昭霊后を小黄園に於いて祀った。任城王の劉尚を呼び睢陽で会見した。梁へ行幸した。使者を遣わして沛の高原廟、豊枌楡社を祀らせた。沛へ行幸し、献王陵を祀らせ、東海王の劉政を呼び会見した。日食が起きた。9月、章帝は彭城へ行幸し、東海王の劉政、沛王の劉定、任城王の劉尚は皆従った。寿春まで至った。章帝は詔勅を出した。また、阜陵侯の劉延を阜陵王に復帰させた。汝陰に行幸した。冬10月、章帝の車駕は都に戻った。北匈奴の屋蘭儲らが衆を率いて降った。

この年、西域長史の班超は莎車を撃ち、これを大いに破った。月氏国が使者を送り扶拔、師子を献じた。

章和2年(88年)春正月、済南王の劉康、阜陵王の劉延、中山王の劉焉が来朝した。2月、章帝は章徳前殿において崩御した。33歳であった。

妻子

后妃

  • 章徳竇皇后
  • 梁貴人(恭懐梁皇后)
  • 宋貴人(敬隠宋皇后)
  • 竇貴人
  • 宋貴人(敬隠の妹)
  • 梁貴人(恭懐の姉)
  • 申貴人

男子

女子

  • 武徳長公主 劉男
  • 平邑公主 劉王
  • 陰安公主 劉吉

脚注

  1. ^ 後漢書』巻55 章帝八王伝 では、劉全は嗣子亡くして夭折したと記されている。しかし、高島俊男著『三国志きらめく群像』276頁によると、後漢末の劉焉は彼の末裔だと推測されている。平春は江夏郡の地名である。

参考資料