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島と吉本は以後も交流を続け、1960年9月、安保ブントが解体状況を露呈し島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の日記<ref>『[[共産主義者同盟|ブント]]書記長島成郎を読む』所収</ref>には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。
島と吉本は以後も交流を続け、1960年9月、安保ブントが解体状況を露呈し島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の日記<ref>『[[共産主義者同盟|ブント]]書記長島成郎を読む』所収</ref>には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。


1961年9月には吉本が[[谷川雁]]、[[村上一郎]]らとともに雑誌『試行』を創刊した<ref>11号以降吉本の単独編集で、1997年12月19日付発行の74号終刊まで紆余曲折を伴いつつ36年間継続された。『吉本隆明の時代』[[すが秀実]](作品社、2008)</ref>が、その資金は島が用意した。島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。資金は、当時の金で11万円ほどだった。
1961年9月には吉本が[[谷川雁]]、[[村上一郎]]らとともに雑誌『試行』を創刊した<ref>11号以降吉本の単独編集で、1997年12月19日付発行の74号終刊まで紆余曲折を伴いつつ36年間継続された。『吉本隆明の時代』[[秀実]](作品社、2008)</ref>が、その資金は島が用意した。島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。資金は、当時の金で11万円ほどだった。


2000年10月、島の死の際には吉本は「知っている範囲で、[[谷川雁]]さんと[[武井昭夫]]さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」<ref>「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、『[[共産主義者同盟|ブント]]書記長島成郎を読む』所収</ref>と追悼文を書いた。
2000年10月、島の死の際には吉本は「知っている範囲で、[[谷川雁]]さんと[[武井昭夫]]さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」<ref>「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、『[[共産主義者同盟|ブント]]書記長島成郎を読む』所収</ref>と追悼文を書いた。
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* 島成郎記念文集刊行会編 『島成郎と60年安保の時代II―60年安保とブントを読む』 情況出版、2002年。
* 島成郎記念文集刊行会編 『島成郎と60年安保の時代II―60年安保とブントを読む』 情況出版、2002年。
* 田中清玄・大須賀瑞夫 『田中清玄自伝』 文藝春秋、1993年、ISBN 4-16-347550-8
* 田中清玄・大須賀瑞夫 『田中清玄自伝』 文藝春秋、1993年、ISBN 4-16-347550-8
* [[すが秀実]] 『吉本隆明の時代』 [[作品社]]、2008年。
* [[秀実]] 『吉本隆明の時代』 [[作品社]]、2008年。
* 森田実 『戦後左翼の秘密』 潮文社、1980年。
* 森田実 『戦後左翼の秘密』 潮文社、1980年。
* [[西部邁]] 『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』 [[洋泉社]]MC新書、[[2007年]] 所収、「第4章 苦悩せる理想家―島成郎」
* [[西部邁]] 『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』 [[洋泉社]]MC新書、[[2007年]] 所収、「第4章 苦悩せる理想家―島成郎」

2020年7月13日 (月) 20:13時点における版

島 成郎(しま しげお、1931年3月3日 - 2000年10月17日)は日本の学生運動家、精神科医。1960年の安保闘争当時の全学連書記長。

経歴

東京都生まれ。1950年東京大学教養学部入学と同時に日本共産党に入党。共産党の50年分裂で除名処分をうける。レッドパージ反対闘争に参画し、自治会副委員長として運動する。1951年、共産党に復党。1954年、東京大学医学部に進学。

1955年、全学連再建に精力的に活動し砂川基地反対闘争、原水爆禁止反対闘争に参画。1957年、共産党の東京都党委員に当選。第7回大会の代議員になるが生田浩二佐伯秀光と共に党内フラクションを結成し「プロレタリア通信」を発信する。1960年安保闘争時のブント系(共産主義者同盟)全学連書記長として、委員長の唐牛健太郎青木昌彦を支えた。のち田中清玄からの資金供与などをマスコミで報道され、共産党をはじめ内外から強い批判をうけ、運動の前線からは撤退を余儀なくされる。

1964年、東京大学医学部卒。闘争終息後は国立武蔵療養所(現 国立精神・神経研究センター)、都立島田療育園に勤務、また地域医療に尽力。85年に上京して、陽和病院院長。その後は北海道鶴居村のつるい養生邑病院名誉院長、北海道苫小牧市の植苗病院副院長、沖縄本部記念病院医療顧問、同病院やんばる所長を歴任。2000年、沖縄県名護市にて胃がんのため生涯を終えた。

吉本隆明との関係

中央公論』1960年4月号で、詩人で思想家だった吉本隆明を招き、葉山岳夫などのブント幹部とともに座談会を行った。以降、吉本は世界初の共産党からの独立左翼と言われるブントと行動をともにする。吉本はこのとき、「同伴知識人第二号」として批判された。なお一号は社会学者の清水幾太郎。島らの依頼で吉本は6月15日の国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された[1]

島と吉本は以後も交流を続け、1960年9月、安保ブントが解体状況を露呈し島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の日記[2]には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。

1961年9月には吉本が谷川雁村上一郎らとともに雑誌『試行』を創刊した[3]が、その資金は島が用意した。島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。資金は、当時の金で11万円ほどだった。

2000年10月、島の死の際には吉本は「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」[4]と追悼文を書いた。

田中清玄との関係

戦前、日本共産党(第二次共産党)中央委員長で転向後は右翼活動家・実業家、モンペルラン・ソサイエティー会員だった田中清玄(たなか きよはる)が1960年(昭和35年)『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表した。このなかで田中は「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる」と呼びかけるなど、全学連の安保闘争に共感を示しつつ、その限界を批判したものだった[5]

これを読んだ島が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪れ、田中はこれに応じた[6]唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職する[7]。 1963年、TBSラジオが『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)を放送し、島や唐牛らが田中から資金援助をうけていたことが報じられる[7]。日本共産党は『赤旗』で「右翼と結びついていた」として全学連を連日批判した[8]。批評家の柄谷行人も同主旨で批判した[9]

島自身は田中との関係について、次のように回想している。「スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。(中略)その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、「お、これは金になるかもしらん」といって、出掛けていったわけです。(中略)会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで「オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた」としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです。[10]

また、島は田中を通じて山口組三代組長だった田岡一雄とも関係を持ち、資金援助をうけた[11]

人物評と受賞

東大病院精神科教授の台弘は、1990年代初頭に、島に酒の飲み過ぎを注意したら、島に「いつまで教授のつもりでいる」と冷やかされた。台はこの件に触れて、島のように何処に行っても信奉者のできる男にすら、「権威コンプレックスによる誤解」があったのは意外で、「人をレッテルでしか見ない傾向」があるのは情けないと評した[12]

受賞
  • 『精神医療ひとつの試み』で沖縄タイムス出版文化賞を受賞
  • 1995年、沖縄県知事功労賞を受賞

著書

  • 「唐牛健太郎の壮烈な戦死」(1984年5月)、城山三郎編 『「男の生き方」四〇選 下』 文春文庫、1995年、所収
  • 「精神医療・沖縄十五年-持続する地域活動を求めて-」社会評論社、1988年
  • (島ひろ子との共著)「ブント私史―青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ」 批評社、2010年

参考文献

  • 島成郎記念文集刊行会編 『島成郎と60年安保の時代I―ブント書記長島成郎を読む』 情況出版、2002年。
  • 島成郎記念文集刊行会編 『島成郎と60年安保の時代II―60年安保とブントを読む』 情況出版、2002年。
  • 田中清玄・大須賀瑞夫 『田中清玄自伝』 文藝春秋、1993年、ISBN 4-16-347550-8
  • 絓秀実 『吉本隆明の時代』 作品社、2008年。
  • 森田実 『戦後左翼の秘密』 潮文社、1980年。
  • 西部邁 『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』 洋泉社MC新書、2007年 所収、「第4章 苦悩せる理想家―島成郎」
  • 『吉本隆明が語る戦後五五年9 天皇制と日本人』 三交社、2002年。
  • 吉本隆明 「反安保闘争の悪煽動について」『日本読書新聞』 1963,3,25、『吉本隆明全著作集 13』所収

脚注

  1. ^ この時の様子を吉本は、「警官隊の棍棒に追われ、追付かれたものは力いっぱい殴打されている、塀をのりこえるほかに生命を全うして逃げる道がなかった」と述べている。不作為にのりこえた塀の中は警視庁内であり、30数人の学生と共にそこで逮捕された。『重層的な非決定へ』p.132-133 「六・一五事件と私」 ISBN 4-479-72022-7
  2. ^ ブント書記長島成郎を読む』所収
  3. ^ 11号以降吉本の単独編集で、1997年12月19日付発行の74号終刊まで紆余曲折を伴いつつ36年間継続された。『吉本隆明の時代』絓秀実(作品社、2008)
  4. ^ 「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、『ブント書記長島成郎を読む』所収
  5. ^ 田中清玄・大須賀瑞夫 『田中清玄自伝』 文藝春秋、1993年、ISBN 4-16-347550-8
  6. ^ 田中は後に次のように回想している。「革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸篠原浩一郎もだ。」『田中清玄自伝』 文藝春秋、1993年、pp.171-175
  7. ^ a b 蔵田計成 (2007年5月20日). “政治・時代に生きた新左翼・歴史群像〜唐牛健太郎(4)”. JAN JAN. オリジナルの2007年10月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071013003214/http://www.news.janjan.jp/government/0705/0705195747/1.php :唐牛は田中の事務所に、篠原浩一郎は田岡一雄甲陽運輸に就職した。篠原浩一郎 『60年安保、6人の証言』 同時代社より。吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」『吉本隆明全著作集 13』所収、pp.121-130。森田実 『戦後左翼の秘密』 潮文社、1980年、pp.281-284
  8. ^ 森田実 『戦後左翼の秘密』 潮文社
  9. ^ 『吉本隆明が語る戦後五五年9 天皇制と日本人』 三交社、2002年、pp.85-87
  10. ^ 島成郎 「唐牛健太郎の壮烈な戦死」(1984年5月) 城山三郎編 『「男の生き方」四〇選 下』 文春文庫、一九九五年、所収
  11. ^ 「山口組の田岡氏とのことも、田中氏の繋がりです」と島はのちに証言した。島成郎 「唐牛健太郎の壮烈な戦死」城山三郎編 『「男の生き方」四〇選 下』 文春文庫、一九九五年、所収
  12. ^ 台弘. “11章「東京大学と学園紛争」”. 『誰が風を見たか』. 星和書店. pp. 192-193 

関連項目

外部リンク