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「白山 (文京区)」の版間の差分

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== 歴史・地理 ==
== 歴史・地理 ==
地名は[[白山神社 (文京区)|白山神社]]から。縁起によれば、[[948年]]([[天暦]]2年)に[[加賀国|加賀]][[一宮|一ノ宮]]の[[白山比神社|白山神社]]を分祀しこの地に祭った。[[徳川綱吉]]の信仰を受けた。
地名は[[白山神社 (文京区)|白山神社]]から。縁起によれば、[[948年]]([[天暦]]2年)に[[加賀国|加賀]][[一宮|一ノ宮]]の[[白山比神社|白山神社]]を分祀しこの地に祭った。[[徳川綱吉]]の信仰を受けた。


[[江戸時代]]まで[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]小石川村、駒込村の各一部だった。1878年(明治11年)7月に[[郡区町村編制法]]施行により[[小石川区]]、[[本郷区]]にそれぞれ編入され、1889年(明治22年)5月市制施行で[[東京市]]に編入。1947年(昭和22年)に[[文京区]]の一部になる。1967年(昭和42年)1月、住居表示の実施に伴い、従来の丸山新町(現:白山1丁目)、指ヶ谷町(現:白山1・2・4・5丁目)、戸崎町(現:白山2丁目)、白山御殿町(現:白山3・4丁目)、白山前町(現:白山1・5丁目)、原町(現:白山3・4・5丁目)、などの合併により白山1 - 5丁目が成立した。
[[江戸時代]]まで[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]小石川村、駒込村の各一部だった。1878年(明治11年)7月に[[郡区町村編制法]]施行により[[小石川区]]、[[本郷区]]にそれぞれ編入され、1889年(明治22年)5月市制施行で[[東京市]]に編入。1947年(昭和22年)に[[文京区]]の一部になる。1967年(昭和42年)1月、住居表示の実施に伴い、従来の丸山新町(現:白山1丁目)、指ヶ谷町(現:白山1・2・4・5丁目)、戸崎町(現:白山2丁目)、白山御殿町(現:白山3・4丁目)、白山前町(現:白山1・5丁目)、原町(現:白山3・4・5丁目)、などの合併により白山1 - 5丁目が成立した。
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1丁目の[[円乗寺]]には[[八百屋お七]](妙栄禅定尼)の墓があり、寺の門前、表通りに面してお七延命地蔵尊がある。2丁目の[[白山通り]]沿いは明治期は[[銘酒屋|銘酒屋街]]、白山通りの西側[[湿地|低湿地]](現在の白山1丁目の一部)は大正から昭和初期にかけては[[白山 (花街)|白山花街]](三業地)として繁栄した<ref>[http://keikan.t.u-tokyo.ac.jp/research/research2008/nishimura.pdf 近代東京における花街の成立]西村亮彦・内藤廣・中井祐、東京大学院論文, 景観・デザイン研究講演集, 2008/12</ref><ref name=miura>[https://biz-journal.jp/2018/04/post_23147.html 東京・白山は、やばい街だ][[三浦展]]、ビジネスジャーナル、2018.04.26</ref>。明治より盛り場だった指ヶ谷の料理屋店主・秋本鉄五郎が[[鳩山和夫]]([[鳩山一郎]]の父、[[鳩山由紀夫]]の曾祖父)や地元選出の政治家の支援により[[警視庁]]に三業地指定の申請を行い、明治45年(1912年)に「[[白山 (花街)|白山三業地]]」が出来、[[関東大震災]]で被害が少なかったことから、大正中期以降、周辺一帯の人口急増を背景に隆盛した<ref name=ito>『東京大学が文京区になかったら: 「文化のまち」はいかに生まれたか』伊藤毅、 樺山紘一、 初田香成、 橋元貴、 森朋久、 松山恵、 赤松加寿江、 勝田俊輔、NTT出版, 2018, pp.100-101</ref><ref name=bunkyo>[http://www.takken-bunkyo.jp/omoidenomachi/omoidenomachi08.html 『文京の町・今昔』8 白山旧花街・消えたお不動さん]井上重臣、公益社団法人東京都宅地建物取引業協会、文京区支部報555号、平成18年7月</ref>。[[樋口一葉]]の『[[にごりえ]]』は私娼窟だった白山の銘酒屋をモデルに書かれ、[[徳田秋声]]の『[[縮図]]』の主人公は白山花街の芸者である<ref name=miura/><ref name=bunkyo/>。関東大震災以後、小石川区に[[印刷会社|印刷工場]]が多く移転してきたことから労働者が集まり、昭和初期の白山御殿町には東京市最大の不良住宅地区([[長屋]]が並ぶ[[スラム#江戸・東京のスラム|細民居住地]])が形成され、[[労働争議]]を描いた[[徳永直]]の『[[太陽のない街]]』は白山のそれら地域が舞台となっている<ref name=ito/>。
1丁目の[[円乗寺]]には[[八百屋お七]](妙栄禅定尼)の墓があり、寺の門前、表通りに面してお七延命地蔵尊がある。2丁目の[[白山通り]]沿いは明治期は[[銘酒屋|銘酒屋街]]、白山通りの西側[[湿地|低湿地]](現在の白山1丁目の一部)は大正から昭和初期にかけては[[白山 (花街)|白山花街]](三業地)として繁栄した<ref>[http://keikan.t.u-tokyo.ac.jp/research/research2008/nishimura.pdf 近代東京における花街の成立]西村亮彦・内藤廣・中井祐、東京大学院論文, 景観・デザイン研究講演集, 2008/12</ref><ref name=miura>[https://biz-journal.jp/2018/04/post_23147.html 東京・白山は、やばい街だ][[三浦展]]、ビジネスジャーナル、2018.04.26</ref>。明治より盛り場だった指ヶ谷の料理屋店主・秋本鉄五郎が[[鳩山和夫]]([[鳩山一郎]]の父、[[鳩山由紀夫]]の曾祖父)や地元選出の政治家の支援により[[警視庁]]に三業地指定の申請を行い、明治45年(1912年)に「[[白山 (花街)|白山三業地]]」が出来、[[関東大震災]]で被害が少なかったことから、大正中期以降、周辺一帯の人口急増を背景に隆盛した<ref name=ito>『東京大学が文京区になかったら: 「文化のまち」はいかに生まれたか』伊藤毅、 樺山紘一、 初田香成、 橋元貴、 森朋久、 松山恵、 赤松加寿江、 勝田俊輔、NTT出版, 2018, pp.100-101</ref><ref name=bunkyo>[http://www.takken-bunkyo.jp/omoidenomachi/omoidenomachi08.html 『文京の町・今昔』8 白山旧花街・消えたお不動さん]井上重臣、公益社団法人東京都宅地建物取引業協会、文京区支部報555号、平成18年7月</ref>。[[樋口一葉]]の『[[にごりえ]]』は私娼窟だった白山の銘酒屋をモデルに書かれ、[[徳田秋声]]の『[[縮図]]』の主人公は白山花街の芸者である<ref name=miura/><ref name=bunkyo/>。関東大震災以後、小石川区に[[印刷会社|印刷工場]]が多く移転してきたことから労働者が集まり、昭和初期の白山御殿町には東京市最大の不良住宅地区([[長屋]]が並ぶ[[スラム#江戸・東京のスラム|細民居住地]])が形成され、[[労働争議]]を描いた[[徳永直]]の『[[太陽のない街]]』は白山のそれら地域が舞台となっている<ref name=ito/>。


5丁目の[[白山神社 (文京区)|白山神社]]は、[[加賀国|加賀]]([[石川県]])[[白山]]にある[[白山比め神社|白山比咩神社]](総本社)の分霊を勧請した古社。もと3丁目の地にあったが、1655年(明暦元年)白山御殿造営に際して現在地に移転。また本念寺には、江戸後期の文人[[大田南畝]](蜀山人)の墓がある。
5丁目の[[白山神社 (文京区)|白山神社]]は、[[加賀国|加賀]]([[石川県]])[[白山]]にある[[白山比咩神社]](総本社)の分霊を勧請した古社。もと3丁目の地にあったが、1655年(明暦元年)白山御殿造営に際して現在地に移転。また本念寺には、江戸後期の文人[[大田南畝]](蜀山人)の墓がある。


[[東京大学大学院理学系研究科附属植物園|小石川植物園]]は[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学大学院理学系研究科]]に付属する公開の[[植物園]]。5代将軍[[徳川綱吉]]が[[上野]](群馬県)館林藩主だった頃の[[下屋敷]](白山御殿)のあった所で、1719年(享保4年)雑司ヶ谷薬園がここに移された。[[青木昆陽]]が[[飢饉]]対策として甘藷([[サツマイモ]])の試作をしたり、庶民のための養生所(施療院)が経営されたことは有名。園内に甘藷先生の記念碑が立ち、また療生所の井戸が残存している。1877年(明治10年)、養生所は[[東京医学校]](東大医学部の前身で、現存の校舎は国重文)となり、のちに東大付属の植物園となった。
[[東京大学大学院理学系研究科附属植物園|小石川植物園]]は[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学大学院理学系研究科]]に付属する公開の[[植物園]]。5代将軍[[徳川綱吉]]が[[上野]](群馬県)館林藩主だった頃の[[下屋敷]](白山御殿)のあった所で、1719年(享保4年)雑司ヶ谷薬園がここに移された。[[青木昆陽]]が[[飢饉]]対策として甘藷([[サツマイモ]])の試作をしたり、庶民のための養生所(施療院)が経営されたことは有名。園内に甘藷先生の記念碑が立ち、また療生所の井戸が残存している。1877年(明治10年)、養生所は[[東京医学校]](東大医学部の前身で、現存の校舎は国重文)となり、のちに東大付属の植物園となった。

2020年7月13日 (月) 20:17時点における版

日本 > 東京都 > 文京区 > 白山 (文京区)
白山
白山駅 A3出入口(2016年6月2日)
白山駅 A3出入口(2016年6月2日)
白山の位置(東京23区内)
白山
白山
白山の位置
北緯35度43分0.65秒 東経139度45分8.8秒 / 北緯35.7168472度 東経139.752444度 / 35.7168472; 139.752444
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 文京区
地域 小石川地域
面積
 • 合計 0.983 km2
人口
2019年(令和元年)8月1日現在)[2]
 • 合計 18,872人
 • 密度 19,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
113-0001(一丁目)[3]
112-0001(二〜五丁目)[4]
市外局番 03[5]
ナンバープレート 練馬

白山(はくさん)は、東京都文京区町名[6]。現行行政地名は白山1丁目から白山5丁目。西片向丘本駒込千石小石川と接する文教・住宅地区。学校寺院が多い。後述のとおりその名が白山神社に由来するため発音のアクセントは「さ」に置かれるが,外来者には「は」にアクセントを置いて発音する者も多い。

主要な商業地は、都営地下鉄三田線白山駅の周辺に集中しており、駅周辺をほぼ南北に貫く坂(薬師坂)の頂上の地域を白山上、坂の入口の地域を白山下、白山下から白山上と逆方向に上っていった所を白山御殿町と呼ぶ。

歴史・地理

地名は白山神社から。縁起によれば、948年天暦2年)に加賀一ノ宮白山神社を分祀しこの地に祭った。徳川綱吉の信仰を受けた。

江戸時代まで武蔵国豊島郡小石川村、駒込村の各一部だった。1878年(明治11年)7月に郡区町村編制法施行により小石川区本郷区にそれぞれ編入され、1889年(明治22年)5月市制施行で東京市に編入。1947年(昭和22年)に文京区の一部になる。1967年(昭和42年)1月、住居表示の実施に伴い、従来の丸山新町(現:白山1丁目)、指ヶ谷町(現:白山1・2・4・5丁目)、戸崎町(現:白山2丁目)、白山御殿町(現:白山3・4丁目)、白山前町(現:白山1・5丁目)、原町(現:白山3・4・5丁目)、などの合併により白山1 - 5丁目が成立した。

1丁目の円乗寺には八百屋お七(妙栄禅定尼)の墓があり、寺の門前、表通りに面してお七延命地蔵尊がある。2丁目の白山通り沿いは明治期は銘酒屋街、白山通りの西側低湿地(現在の白山1丁目の一部)は大正から昭和初期にかけては白山花街(三業地)として繁栄した[7][8]。明治より盛り場だった指ヶ谷の料理屋店主・秋本鉄五郎が鳩山和夫鳩山一郎の父、鳩山由紀夫の曾祖父)や地元選出の政治家の支援により警視庁に三業地指定の申請を行い、明治45年(1912年)に「白山三業地」が出来、関東大震災で被害が少なかったことから、大正中期以降、周辺一帯の人口急増を背景に隆盛した[9][10]樋口一葉の『にごりえ』は私娼窟だった白山の銘酒屋をモデルに書かれ、徳田秋声の『縮図』の主人公は白山花街の芸者である[8][10]。関東大震災以後、小石川区に印刷工場が多く移転してきたことから労働者が集まり、昭和初期の白山御殿町には東京市最大の不良住宅地区(長屋が並ぶ細民居住地)が形成され、労働争議を描いた徳永直の『太陽のない街』は白山のそれら地域が舞台となっている[9]

5丁目の白山神社は、加賀石川県白山にある白山比咩神社(総本社)の分霊を勧請した古社。もと3丁目の地にあったが、1655年(明暦元年)白山御殿造営に際して現在地に移転。また本念寺には、江戸後期の文人大田南畝(蜀山人)の墓がある。

小石川植物園東京大学大学院理学系研究科に付属する公開の植物園。5代将軍徳川綱吉上野(群馬県)館林藩主だった頃の下屋敷(白山御殿)のあった所で、1719年(享保4年)雑司ヶ谷薬園がここに移された。青木昆陽飢饉対策として甘藷(サツマイモ)の試作をしたり、庶民のための養生所(施療院)が経営されたことは有名。園内に甘藷先生の記念碑が立ち、また療生所の井戸が残存している。1877年(明治10年)、養生所は東京医学校(東大医学部の前身で、現存の校舎は国重文)となり、のちに東大付属の植物園となった。

地価

住宅地の地価は2017年平成29年)1月1日公示地価によれば白山4-28-18の地点で76万7000円/m2となっている。

世帯数と人口

2019年(令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目 世帯数 人口
白山一丁目 2,841世帯 5,125人
白山二丁目 2,385世帯 4,364人
白山三丁目 531世帯 1,012人
白山四丁目 2,458世帯 4,537人
白山五丁目 2,188世帯 3,834人
10,403世帯 18,872人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11][12]

丁目 番地 小学校 中学校
白山一丁目 3〜4番
9〜10番
15番
23番1号、14〜16号
23番19号
24〜28番
29番2〜5号、10〜11号
32番10号(一部)
32番11〜13号
文京区立誠之小学校 文京区立第六中学校
33~37番 文京区立指ケ谷小学校
1〜2番
5〜6番
文京区立第三中学校
その他 文京区立茗台中学校
白山二丁目 1〜8番
21〜39番
その他 文京区立柳町小学校
白山三丁目 1~6番 文京区立窪町小学校 文京区立第一中学校
その他 文京区立林町小学校 文京区立第十中学校
白山四丁目 5〜24番
34番7〜11号
35〜37番
文京区立明化小学校
その他 文京区立指ケ谷小学校
白山五丁目 1〜4番
31〜36番
17番11~17号 文京区立駕籠町小学校
その他 文京区立明化小学校

施設

小石川の名を冠された施設が見られるのは旧:小石川区を由来とするものである。

寺社

  • 延寿院 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 円乗寺 - 天台宗の仏教寺院
  • 浄心寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 念速寺 - 真宗大谷派の仏教寺院
  • 喜運寺 - 曹洞宗の仏教寺院
  • 法傳寺 - 浄土宗の仏教寺院
  • 安閑寺 - 真宗大谷派の仏教寺院
  • 大雲寺 - 浄土宗の仏教寺院
  • 是照院 - 臨済宗妙心寺派の仏教寺院
  • 巖浄院 - 浄土宗の仏教寺院
  • 蓮華寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 新福寺 - 真宗大谷派の仏教寺院
  • 本念寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 妙伝寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 浄土寺 - 浄土宗の仏教寺院
  • 龍泉寺 - 天台宗の仏教寺院
  • 寂圓寺 - 真宗大谷派の仏教寺院
  • 蓮久寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 倫道観寺 - 単立の仏教寺院
  • 大乗寺 - 日蓮宗の仏教寺院
  • 最乗寺東京別院 - 神奈川県南足柄市大雄町に置かれた曹洞宗の仏教寺院、最乗寺の別院。
  • 妙清寺 - 曹洞宗の仏教寺院
  • 心光寺 - 浄土宗の仏教寺院
  • 竜雲院 - 臨済宗円覚寺派の仏教寺院
  • 白山神社
  • 浅間神社

関連項目

脚注

  1. ^ 文京の統計 - 第51回文京の統計(平成30年)”. 文京区 (2019年1月1日). 2019年9月1日閲覧。
  2. ^ a b 文京区人口統計資料 - 町丁別世帯・人口(住民基本台帳)(毎月1日現在)”. 文京区 (2019年8月1日). 2019年9月1日閲覧。
  3. ^ 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  5. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月5日閲覧。
  6. ^ 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、p.991
  7. ^ 近代東京における花街の成立西村亮彦・内藤廣・中井祐、東京大学院論文, 景観・デザイン研究講演集, 2008/12
  8. ^ a b 東京・白山は、やばい街だ三浦展、ビジネスジャーナル、2018.04.26
  9. ^ a b 『東京大学が文京区になかったら: 「文化のまち」はいかに生まれたか』伊藤毅、 樺山紘一、 初田香成、 橋元貴、 森朋久、 松山恵、 赤松加寿江、 勝田俊輔、NTT出版, 2018, pp.100-101
  10. ^ a b 『文京の町・今昔』8 白山旧花街・消えたお不動さん井上重臣、公益社団法人東京都宅地建物取引業協会、文京区支部報555号、平成18年7月
  11. ^ 小学校 通学区域”. 文京区 (2014年11月5日). 2019年9月1日閲覧。
  12. ^ 中学校 通学区域”. 文京区 (2013年11月18日). 2019年9月1日閲覧。

外部リンク