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[[建安 (漢)|建安]]24年([[219年]])、[[呂蒙]]が[[荊州]]に侵攻し[[関羽]]を殺害すると、[[曹操]]は[[孫権]]を[[驃騎将軍]]・荊州[[刺史|牧]]に任じ、仮節を与え、南昌侯に封じた。孫権は校尉の[[梁寓]]を使者に立てて後漢の朝廷に献上物を捧げさせ、捕虜の[[朱光]]を返還し、それとともに王惇に命じて馬を買い入れさせた<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 呉主伝</ref>。


[[太平 (呉)|太平]]元年(256年)11月、[[孫チン|孫綝]]の従兄の[[孫憲]]は、将軍の王惇と謀って孫綝の暗殺を企てたが、事が発覚し、孫綝は王惇を殺害し、孫憲には自殺をさせたという<ref>『三国志』呉志 [[孫亮]]伝・呉志 孫綝伝</ref>。
[[太平 (呉)|太平]]元年(256年)11月、[[孫綝]]の従兄の[[孫憲]]は、将軍の王惇と謀って孫綝の暗殺を企てたが、事が発覚し、孫綝は王惇を殺害し、孫憲には自殺をさせたという<ref>『三国志』呉志 [[孫亮]]伝・呉志 孫綝伝</ref>。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年7月14日 (火) 10:13時点における版

王 惇(おう とん、? - 256年)は、中国後漢末期から三国時代武将

生涯

建安24年(219年)、呂蒙荊州に侵攻し関羽を殺害すると、曹操孫権驃騎将軍・荊州に任じ、仮節を与え、南昌侯に封じた。孫権は校尉の梁寓を使者に立てて後漢の朝廷に献上物を捧げさせ、捕虜の朱光を返還し、それとともに王惇に命じて馬を買い入れさせた[1]

太平元年(256年)11月、孫綝の従兄の孫憲は、将軍の王惇と謀って孫綝の暗殺を企てたが、事が発覚し、孫綝は王惇を殺害し、孫憲には自殺をさせたという[2]

参考文献

脚注

  1. ^ 三国志』呉志 呉主伝
  2. ^ 『三国志』呉志 孫亮伝・呉志 孫綝伝