コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「聯元」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:
'''聯元'''(れんげん、リャンユワン、{{lang-mnc|ᠯᡞᠶᠠᠨ ᠶᡠᠸᠠᠨ}} 転写:liyan-yuwan、''Lianyuan''、[[1838年]] - [[1900年]])、字は'''仙蘅'''、[[清]]末の官僚。
'''聯元'''(れんげん、リャンユワン、{{lang-mnc|ᠯᡞᠶᠠᠨ ᠶᡠᠸᠠᠨ}} 転写:liyan-yuwan、''Lianyuan''、[[1838年]] - [[1900年]])、字は'''仙蘅'''、[[清]]末の官僚。


[[満州民族|満州]]鑲紅[[旗人]]。チュイギャ氏(cuigiya hala、崔佳氏)。[[1868年]]に[[進士]]となり、やがて内閣学士・[[総理各国事務衙門]]行走に昇進した。[[1900年]]、[[義和団の乱]]が発生し、義和団が各国公使館を包囲した。御前会議で[[崇綺]](チュンキ)が「民気用いるべし」と主張すると、聯元は「民気用いるべし、匪気用いるべからず」と反論し、争論となった。[[八カ国連合軍]]が[[天津市|天津]]の[[大沽砲台]]を占拠すると、[[愛新覚羅載|端郡王載漪]]らは主戦論を唱えた。聯元は「[[日清戦争]]では[[日本]]一国にも勝利できなかったのに、八カ国連合軍に勝利できるだろうか」と反論した。しかし載漪はその言葉を不吉として退け、[[旧暦]]7月17日、[[徐用儀]]・[[立山 (清)|立山]](リシャン)とともに聯元を斬首に処した。義和団の乱終結後、聯元は徐用儀・[[許景澄]]・[[袁昶]]・立山とともに「五忠」と称された。
[[満州民族|満州]]鑲紅[[旗人]]。チュイギャ氏(cuigiya hala、崔佳氏)。[[1868年]]に[[進士]]となり、やがて内閣学士・[[総理各国事務衙門]]行走に昇進した。[[1900年]]、[[義和団の乱]]が発生し、義和団が各国公使館を包囲した。御前会議で[[崇綺]](チュンキ)が「民気用いるべし」と主張すると、聯元は「民気用いるべし、匪気用いるべからず」と反論し、争論となった。[[八カ国連合軍]]が[[天津市|天津]]の[[大沽砲台]]を占拠すると、[[愛新覚羅載|端郡王載漪]]らは主戦論を唱えた。聯元は「[[日清戦争]]では[[日本]]一国にも勝利できなかったのに、八カ国連合軍に勝利できるだろうか」と反論した。しかし載漪はその言葉を不吉として退け、[[旧暦]]7月17日、[[徐用儀]]・[[立山 (清)|立山]](リシャン)とともに聯元を斬首に処した。義和団の乱終結後、聯元は徐用儀・[[許景澄]]・[[袁昶]]・立山とともに「五忠」と称された。


{{DEFAULTSORT:れんけん}}
{{DEFAULTSORT:れんけん}}

2020年7月18日 (土) 02:30時点における版

聯元

聯元(れんげん、リャンユワン、満洲語: ᠯᡞᠶᠠᠨ ᠶᡠᠸᠠᠨ 転写:liyan-yuwan、Lianyuan1838年 - 1900年)、字は仙蘅末の官僚。

満州鑲紅旗人。チュイギャ氏(cuigiya hala、崔佳氏)。1868年進士となり、やがて内閣学士・総理各国事務衙門行走に昇進した。1900年義和団の乱が発生し、義和団が各国公使館を包囲した。御前会議で崇綺(チュンキ)が「民気用いるべし」と主張すると、聯元は「民気用いるべし、匪気用いるべからず」と反論し、争論となった。八カ国連合軍天津大沽砲台を占拠すると、端郡王載漪らは主戦論を唱えた。聯元は「日清戦争では日本一国にも勝利できなかったのに、八カ国連合軍に勝利できるだろうか」と反論した。しかし載漪はその言葉を不吉として退け、旧暦7月17日、徐用儀立山(リシャン)とともに聯元を斬首に処した。義和団の乱終結後、聯元は徐用儀・許景澄袁昶・立山とともに「五忠」と称された。