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[[ソニン (清)|ソニン]]の三男。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、[[オボイ]]が反対派を粛清して専横を振るうようになった。康煕8年(1669年)、康熙帝はソンゴトゥと謀り、[[ブフ|モンゴル相撲]]にかこつけてオボイを捕らえた。ソンゴトゥは[[国史院]]大学士となり、翌年に保和殿大学士となった。さらに内大臣、議政大臣などに任じられ、[[納蘭明珠]]らと権力を競った。康熙28年(1689年)には[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]との間で[[ネルチンスク条約]]の締結に当たった。一方、[[三藩の乱|三藩問題]]では宥和を唱え、また立儲問題の際に[[愛新覚羅胤礽|胤礽]](孝誠仁皇后の遺子)を支持し、康熙帝の怒りを買った。 |
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康熙40年(1701年)に致仕したものの、翌年には皇家の内訌を助長した首謀者として巡幸先の徳州に召喚され、無期懲役に処せられた。翌年(1703年<ref>Русско-китайские отношения в XVII веке: 1686—1691. — М.: Наука, 1972.</ref>)、失意のうちに死去した。 |
康熙40年(1701年)に致仕したものの、翌年には皇家の内訌を助長した首謀者として巡幸先の徳州に召喚され、無期懲役に処せられた。翌年(1703年<ref>Русско-китайские отношения в XVII веке: 1686—1691. — М.: Наука, 1972.</ref>)、失意のうちに死去した。 |
2020年7月18日 (土) 02:33時点における版
ソンゴトゥ(満洲語: ᠰᠣᠩᡤᠣᡨᡠ、ラテン文字転写:songgotu、漢字:索額図、? - 1703年)は、清の康熙期の官人。孝誠仁皇后の叔父。満洲正黄旗の出身。姓はヘシェリ(赫舎里)氏。
生涯
ソニンの三男。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康煕8年(1669年)、康熙帝はソンゴトゥと謀り、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえた。ソンゴトゥは国史院大学士となり、翌年に保和殿大学士となった。さらに内大臣、議政大臣などに任じられ、納蘭明珠らと権力を競った。康熙28年(1689年)にはロシアとの間でネルチンスク条約の締結に当たった。一方、三藩問題では宥和を唱え、また立儲問題の際に胤礽(孝誠仁皇后の遺子)を支持し、康熙帝の怒りを買った。
康熙40年(1701年)に致仕したものの、翌年には皇家の内訌を助長した首謀者として巡幸先の徳州に召喚され、無期懲役に処せられた。翌年(1703年[1])、失意のうちに死去した。
出典
- 『清史稿』
- ^ Русско-китайские отношения в XVII веке: 1686—1691. — М.: Наука, 1972.