「スペイン領サハラ」の版間の差分
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2020年7月18日 (土) 09:27時点における版
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西サハラ問題 |
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歴史的背景 |
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係争地域 |
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政治 |
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解放闘争 |
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国連の関与 |
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スペイン領サハラ(スペインりょうサハラ、スペイン語:Sáhara Español ,Sahara Español、アラビア語: صحراء الاسبانية 、Sahra'a al Isbaniya)は、1844年から1975年までのスペイン統治下時の西サハラ地域の名称。この地域はスペイン帝国の最後の象徴であり、モロッコとモーリタニア、現地の住民の主張だけではなく、主に国際連合による植民地化解決への国際的な圧力によって放棄された。主権は紛争下にある。人口9万4千人(1974年)、面積26万6千km²だった(この範囲は現在も変わっていない)。
植民地化
1884年、スペインは現在の西サハラの沿岸地帯をベルリン会議によって与えられ、交易を確立し、軍事的な進出を始めた。1886年の夏、貿易地理(Sociedad Española de Geografía Comercial)のスペイン社会の援助を受け, Julio Cervera Baviera、Felipe Rizzo (1823-1908)、Francisco Quiroga (1853-1894) はリオ・デ・オロの植民地へ行き、地誌学者の間で特徴がかろうじて知られていたそこで、地誌学的、天文学的な観察を行った。これはサハラにおける最初の科学的な調査と考えられる[1]。
この地域の境は20世紀初期にスペインとフランスの間で条約が結ばれるまでは明確に決まっていなかった。1924年にスペイン領サハラはスペインの領土からリオ・デ・オロとサギア・エル・ハムラで作られた。 これは一部ではなく、スペイン領モロッコからは別々に統治されていた。 1884年にこの地域に入ると、スペインはすぐにサハラ人先住民部族から挑戦された。1904年のスマラを基盤とするmarabout、シャイフMa al-Aynaynの強力な反乱は、フランスによって1910年に鎮圧されたものの、Ma al-Aynaynの息子や孫、他の政治指導者による反乱の波に引き次がれた。
近代史
部族の反乱により、スペインは1934年までに国の内部を支配するのは難しいと知った。1956年の独立に伴い、モロッコは旧植民地として西サハラを請求した。1957年、モロッコ解放軍 は、イフニー戦争の間にスペイン領西サハラの北にあるシジ・イフニーのほとんどを占領した。スペインはカナリア諸島から落下傘兵連隊を送り、退けることができた。 フランス援助をうけ、脅かされていたスペイン領サハラを含む全体に支配が再確立された。その後、いくつかの懲罰的行動が将来の軍事的行動を防ぐため実行された。 スペイン領サハラの以前の遊牧ベドウィンは特定の地域に定住するよう強要され、町と村の都市化が加速した。他の部族はモロッコへの亡命を余儀なくされた。同じ年、スペインはスペイン領サハラ州を形成するためサギア・エル・ハムラとリオ・デ・オロを統合し、タルファヤとタンタンをモロッコへ割譲した。
1960年代、モロッコはスペイン領サハラへの主張を続け、返還されるリストに載るようにすることに成功した。1969年、スペインは、スペイン領サハラの州都となっていたイフニ地域を返還した。
1967年、スペインはモロッコ政府による密かな組織的運動、ハラカト・タハリールにいっそう深く挑戦された。1970年のゼムラ蜂起の弾圧後、サハラ人ナショナリズムは好戦的に回帰し、1973年にポリサリオ戦線を結成した。この戦線のゲリラ軍は急速に成長し、1975年前半、スペインは地方の支配を失うこととなった。 政治的なライバルを作ることによってポリサリオ戦線の力を削ぐ試みである、Partido de Unión Nacional Saharaui (PUNS)は少しの成功しか収められなかった。
スペインは、サハラウィー人の指導者におおまかにもとづく政治制度、Djema'aを設定することにより共通した部族の指導者を立てようとした。
1975年の冬のフランシスコ・フランコ死亡の直前には、スペインはモロッコとモーリタニアからの緑の行進で最盛期を迎えた激しい領土要求運動に直面していた。スペインは1975年の3カ国間のマドリード協定の合意後、地域から軍と入植者を引き上げた。 モーリタニアはポリサリオ戦線に対する戦いに失敗した後、1979年8月にティリス・アル・ガルビーヤを放棄している。停戦が1991年に効果を発揮したものの、モロッコはアルジェリアの支援を受けるポリサリオ戦線との戦いを封じた。未だ統治権は論争の下にある。
現在の状況
国連は、以前のスペインが行政権をもっていたスペイン領サハラは自治出来ていない地域と考え、モロッコを1970年から行政国としている。PKOはサハラウィー人の間で独立に関する住民投票を行おうとしているが、未だ行われていない。アフリカ連合と最低でも81ヶ国は、支配されてはいるものの、ポリサリオ戦線を背景にもつサハラ・アラブ民主共和国下の状態にあると見なしている。
基礎情報
当時の旗と紋章。 |
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現在とは異なり、宗主国スペインが存在したため、西サハラへの旅行は可能であった。治安も現在に比べれば安定しており、ビザを取得すれば渡航も比較的容易であった。なお、行く場合では種痘予防の接種などが必要となる。
最短ルートは、スペイン本国を経由して航空便で向かうルートであった。
人口
統計年 | 人口 |
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1950年 | 14,000 |
1960年 | 33,000 |
1972年 | 50,000 |
1974年 | 94,000 |
人口は戦後に当たる1950年では1万人程度だったが、1974年では9万人に増えている。
スペイン放棄後の2010年では50万人を超えたと推測されており、現在も紛争地域だが増加中である。
住民
1972年のデータでは、55%を遊牧民ハム人とアラブ人が占め、スペイン人が27%、その他が18%という民族構成となっている。
主要言語はスペイン語とアラブ語、ベルベル語などで、宗教はイスラム教とキリスト教(カトリック)が中心。
経済
国民総生産は1969年のデータでは1300万ドルであり、一人当たりの国民所得は210ドルと、非常に困窮していたことが伺える。
輸出はわずかな観光収入程度であり、主要輸出品もなく輸出額はごくわずか。輸入額は550万ドル。
産業
きびやなつめやし、家畜や魚が主な産業である。これらは西サハラで自給的に消費され、輸出余力はほぼない。
一方、資源として燐酸塩と石油などがある。西サハラで燐酸塩が発見されたのは1963年。他にも石油等が埋蔵されていると考えられている。また、リオ・デ・オロではリン鉱床が存在する。
しかし、スペインは約2億ドル以上かけて燐酸塩の採掘~加工~輸送の設備の整備を行ったが、1972年時点では採掘はされていない。また、外国資本の試掘も、1968年以降行われていない。
石油は現在にいたるまで、少量の生産にとどまっている。
政治
(1972年時点)
スペイン議会に海外州として3人の議員を送っており、西サハラの地方議会も存在する。
しかし、行政はスペイン陸軍が行っており、将軍が事実上の元首でもあった。当時の将軍はフェルナンド・サンチアゴ。