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国舅少父房の後裔。[[統和]]初年、左皮室詳穏となり、[[タタール|阻卜]]を討って功績を挙げた。4年([[986年]])、[[北宋]]の[[曹彬]]・[[米信]]らの軍を望都で撃破した。まもなく永興宮の分糾・舎利・拽剌・二皮室などの軍を率いて、[[枢密使]]の[[耶律斜軫]]とともに宋軍に奪われた[[山西]]の城邑を奪回した。この年の冬、北宋を攻撃する先鋒をつとめ、満城を陥落させ、[[南京析津府|南京]]統軍使に転じた。衛国公主(耶律長寿)を妻とし、駙馬都尉に任じられ、[[同中書門下平章事|同政事門下平章事]]の位を加えられた。
国舅少父房の後裔。[[統和]]初年、左皮室詳穏となり、[[タタール|阻卜]]を討って功績を挙げた。4年([[986年]])、[[北宋]]の[[曹彬]]・[[米信]]らの軍を望都で撃破した。まもなく永興宮の分糾・舎利・拽剌・二皮室などの軍を率いて、[[枢密使]]の[[耶律斜軫]]とともに宋軍に奪われた[[山西]]の城邑を奪回した。この年の冬、北宋を攻撃する先鋒をつとめ、満城を陥落させ、[[南京析津府|南京]]統軍使に転じた。衛国公主(耶律長寿)を妻とし、駙馬都尉に任じられ、[[同中書門下平章事|同政事門下平章事]]の位を加えられた。


13年([[995年]])、北院宣徽使・南院宣徽使を歴任した。[[聖宗 (遼)|聖宗]]にときの政治の利害から賦役の法にいたる意見を上書し、聖宗に聞き入れられた。15年([[997年]])、政事令の位を加えられ、[[東京遼陽府|東京]][[留守官|留守]]に転じた。22年([[1004年]])、再び北宋を攻撃し、[[渤海 (国)|渤海]]軍を率いて、徳清軍を落とした。北宋の魏府の官吏である田逢吉・郭守栄・常顕・劉綽らを捕らえた。[[蕭撻凜]]が死去すると、南面の行政を専任とした。[[セン淵の盟|北宋とのあいだに和議]]が成立すると、北府宰相となった。排押の統治は穏健で寛容であり、当時の人の多数に支持された。
13年([[995年]])、北院宣徽使・南院宣徽使を歴任した。[[聖宗 (遼)|聖宗]]にときの政治の利害から賦役の法にいたる意見を上書し、聖宗に聞き入れられた。15年([[997年]])、政事令の位を加えられ、[[東京遼陽府|東京]][[留守官|留守]]に転じた。22年([[1004年]])、再び北宋を攻撃し、[[渤海 (国)|渤海]]軍を率いて、徳清軍を落とした。北宋の魏府の官吏である田逢吉・郭守栄・常顕・劉綽らを捕らえた。[[蕭撻凜]]が死去すると、南面の行政を専任とした。[[淵の盟|北宋とのあいだに和議]]が成立すると、北府宰相となった。排押の統治は穏健で寛容であり、当時の人の多数に支持された。


28年([[1010年]])、聖宗が[[契丹の高麗侵攻]]すると、排押は都統となり、兵を率いて北道から進攻して、[[開京]]の西嶺で高麗軍を撃破した。[[顕宗 (高麗王)|高麗王詢]]は開京を放棄して平州に逃亡した。排押は開京に入城して、大規模な略奪をおこなった。帰国すると、蘭陵郡王に封じられた。[[開泰 (遼)|開泰]]2年([[1013年]])、宰相のまま西南面招討使となった。5年([[1016年]])、東平王に進んだ。
28年([[1010年]])、聖宗が[[契丹の高麗侵攻]]すると、排押は都統となり、兵を率いて北道から進攻して、[[開京]]の西嶺で高麗軍を撃破した。[[顕宗 (高麗王)|高麗王詢]]は開京を放棄して平州に逃亡した。排押は開京に入城して、大規模な略奪をおこなった。帰国すると、蘭陵郡王に封じられた。[[開泰 (遼)|開泰]]2年([[1013年]])、宰相のまま西南面招討使となった。5年([[1016年]])、東平王に進んだ。

2020年7月21日 (火) 04:28時点における版

蕭排押(しょう はいおう、? - 1023年)は、契丹)の政治家軍人は韓隠。

経歴

国舅少父房の後裔。統和初年、左皮室詳穏となり、阻卜を討って功績を挙げた。4年(986年)、北宋曹彬米信らの軍を望都で撃破した。まもなく永興宮の分糾・舎利・拽剌・二皮室などの軍を率いて、枢密使耶律斜軫とともに宋軍に奪われた山西の城邑を奪回した。この年の冬、北宋を攻撃する先鋒をつとめ、満城を陥落させ、南京統軍使に転じた。衛国公主(耶律長寿)を妻とし、駙馬都尉に任じられ、同政事門下平章事の位を加えられた。

13年(995年)、北院宣徽使・南院宣徽使を歴任した。聖宗にときの政治の利害から賦役の法にいたる意見を上書し、聖宗に聞き入れられた。15年(997年)、政事令の位を加えられ、東京留守に転じた。22年(1004年)、再び北宋を攻撃し、渤海軍を率いて、徳清軍を落とした。北宋の魏府の官吏である田逢吉・郭守栄・常顕・劉綽らを捕らえた。蕭撻凜が死去すると、南面の行政を専任とした。北宋とのあいだに和議が成立すると、北府宰相となった。排押の統治は穏健で寛容であり、当時の人の多数に支持された。

28年(1010年)、聖宗が契丹の高麗侵攻すると、排押は都統となり、兵を率いて北道から進攻して、開京の西嶺で高麗軍を撃破した。高麗王詢は開京を放棄して平州に逃亡した。排押は開京に入城して、大規模な略奪をおこなった。帰国すると、蘭陵郡王に封じられた。開泰2年(1013年)、宰相のまま西南面招討使となった。5年(1016年)、東平王に進んだ。

7年(1018年)、再び都統として高麗に遠征して開京まで到達したが、帰還の途中に茶河・陀河を渡ろうとして、高麗軍の強襲に遭った。排押は武器防具を棄てて敗走した。8年(1019年)、帰国すると敗戦の罪を問われて免官された。

太平3年(1023年)、豳王に封じられて再起したが、死去した。

弟に蕭恒徳があった。

伝記資料