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陳の羽林監の[[庾持]]の子として生まれた。陳に仕えて、豫章王府外兵参軍・宣恵記室を歴任した。陳が滅亡すると[[関中]]に入ったが、隋朝に任用されなかった。隋の晋王[[煬帝|楊広]]がそのことを聞いて、学士として自直を召し出した。[[605年]]([[大業]]元年)、著作佐郎に任じられた。文章をよく作り、五言詩を最も得意とした。煬帝が文章を作ると、まずは必ず自直に示し、その批評を受けた。煬帝は自直が批判した箇所を改め、改稿が再三に及ぶこともあった。後に著作佐郎のまま知起居舎人事をつとめた。[[宇文化及]]が煬帝を殺害して軍を北上させると、自直は露車の中で発病して死去した。『類文』377巻を編纂したほか、『文集』10巻があった。 |
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== 伝記資料 == |
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2020年7月23日 (木) 03:27時点における版
庾 自直(ゆ じちょく、? - 618年)は、南朝陳から隋にかけての文学者。本貫は潁川郡鄢陵県。
経歴
陳の羽林監の庾持の子として生まれた。陳に仕えて、豫章王府外兵参軍・宣恵記室を歴任した。陳が滅亡すると関中に入ったが、隋朝に任用されなかった。隋の晋王楊広がそのことを聞いて、学士として自直を召し出した。605年(大業元年)、著作佐郎に任じられた。文章をよく作り、五言詩を最も得意とした。煬帝が文章を作ると、まずは必ず自直に示し、その批評を受けた。煬帝は自直が批判した箇所を改め、改稿が再三に及ぶこともあった。後に著作佐郎のまま知起居舎人事をつとめた。宇文化及が煬帝を殺害して軍を北上させると、自直は露車の中で発病して死去した。『類文』377巻を編纂したほか、『文集』10巻があった。