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[[535年]]([[大統]]元年)、西魏が建てられると、伏波将軍・度支郎中に任じられ、太子舎人を兼ねた。[[545年]](大統11年)、太子庶子に転じ、兵部郎中を兼ねた。まもなく東南道行台右丞となった。[[550年]](大統16年)、車騎大将軍・[[儀同三司]]の位に進んだ。西魏の宗室として、南安郡王の爵位を受けた。[[551年]](大統17年)、[[幽州]]都督府長史に任じられた。[[552年]]([[廃帝 (西魏)|廃帝]]元年)、[[尉遅迥]]が[[蜀郡|蜀]]を攻撃すると、元偉はその下で司録をつとめ、軍中の文章記録をつかさどった。[[553年]](廃帝2年)、蜀が平定されると、功績により邑500戸の加増を受けた。[[556年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]3年)、六官が建てられると、師氏下大夫の位を受け、爵位は降格されて、淮南県公に改封された。 |
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[[557年]]([[孝閔帝]]元年)、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、晋公[[宇文護]]の下で府司録に任じられた。[[明帝 (北周)|明帝]]の初年、師氏中大夫の位を受けた。明帝の命を受けて麟趾殿で経籍の校勘にあたった。ほどなく隴右総管府長史に任じられ、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[562年]]([[保定]]2年)、[[成州]][[刺史]]として出向した。流民の生業への復帰に尽力して、3000人あまりを定住させた。[[566年]]([[天和 (北周)|天和]]元年)、入朝して匠師中大夫となり、司宗中大夫に転じた。[[571年]](天和6年)、[[随州]]刺史に任じられたが、母が老齢であることを理由に受けなかった。改めて司宗となった。まもなく母が死去したため、職を辞して喪に服した。[[573年]]([[建徳]]2年)、再び司宗となり、司会中大夫の位を受けた。民部中大夫を兼ね、小司寇に転じた。[[575年]](建徳4年)、使主となり、[[北斉]]への使者として立った。この年の秋に[[武帝 (北周)|武帝]]が親征して北斉を攻撃したため、元偉は北斉に抑留された。[[577年]](建徳6年)、北斉が平定されると、元偉は釈放された。抑留の労を武帝にねぎらわれ、上開府の位を加えられた。[[ |
[[557年]]([[孝閔帝]]元年)、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、晋公[[宇文護]]の下で府司録に任じられた。[[明帝 (北周)|明帝]]の初年、師氏中大夫の位を受けた。明帝の命を受けて麟趾殿で経籍の校勘にあたった。ほどなく隴右総管府長史に任じられ、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位を加えられた。[[562年]]([[保定]]2年)、[[成州]][[刺史]]として出向した。流民の生業への復帰に尽力して、3000人あまりを定住させた。[[566年]]([[天和 (北周)|天和]]元年)、入朝して匠師中大夫となり、司宗中大夫に転じた。[[571年]](天和6年)、[[随州]]刺史に任じられたが、母が老齢であることを理由に受けなかった。改めて司宗となった。まもなく母が死去したため、職を辞して喪に服した。[[573年]]([[建徳]]2年)、再び司宗となり、司会中大夫の位を受けた。民部中大夫を兼ね、小司寇に転じた。[[575年]](建徳4年)、使主となり、[[北斉]]への使者として立った。この年の秋に[[武帝 (北周)|武帝]]が親征して北斉を攻撃したため、元偉は北斉に抑留された。[[577年]](建徳6年)、北斉が平定されると、元偉は釈放された。抑留の労を武帝にねぎらわれ、上開府の位を加えられた。[[庾信]]に詩を贈られ、その一節に「斉平げて宝鼎帰る」と詠まれた。[[580年]]([[大象]]2年)、[[襄州]]刺史に任じられ、[[大将軍]]に上った。後に病没した。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年7月23日 (木) 03:29時点における版
元 偉(げん い、生没年不詳)は、西魏の皇族。北周にも仕えて、諸官を歴任した。字は猷道、あるいは子猷。本貫は河南郡洛陽県。
経歴
濮陽王元順の子として生まれた。若くして学問を好み、文雅の風があった。弱冠にして、員外散騎侍郎の位を受けた。侍従の功労により、高陽県伯の爵位を受けた。
535年(大統元年)、西魏が建てられると、伏波将軍・度支郎中に任じられ、太子舎人を兼ねた。545年(大統11年)、太子庶子に転じ、兵部郎中を兼ねた。まもなく東南道行台右丞となった。550年(大統16年)、車騎大将軍・儀同三司の位に進んだ。西魏の宗室として、南安郡王の爵位を受けた。551年(大統17年)、幽州都督府長史に任じられた。552年(廃帝元年)、尉遅迥が蜀を攻撃すると、元偉はその下で司録をつとめ、軍中の文章記録をつかさどった。553年(廃帝2年)、蜀が平定されると、功績により邑500戸の加増を受けた。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、師氏下大夫の位を受け、爵位は降格されて、淮南県公に改封された。
557年(孝閔帝元年)、北周の孝閔帝が即位すると、晋公宇文護の下で府司録に任じられた。明帝の初年、師氏中大夫の位を受けた。明帝の命を受けて麟趾殿で経籍の校勘にあたった。ほどなく隴右総管府長史に任じられ、驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられた。562年(保定2年)、成州刺史として出向した。流民の生業への復帰に尽力して、3000人あまりを定住させた。566年(天和元年)、入朝して匠師中大夫となり、司宗中大夫に転じた。571年(天和6年)、随州刺史に任じられたが、母が老齢であることを理由に受けなかった。改めて司宗となった。まもなく母が死去したため、職を辞して喪に服した。573年(建徳2年)、再び司宗となり、司会中大夫の位を受けた。民部中大夫を兼ね、小司寇に転じた。575年(建徳4年)、使主となり、北斉への使者として立った。この年の秋に武帝が親征して北斉を攻撃したため、元偉は北斉に抑留された。577年(建徳6年)、北斉が平定されると、元偉は釈放された。抑留の労を武帝にねぎらわれ、上開府の位を加えられた。庾信に詩を贈られ、その一節に「斉平げて宝鼎帰る」と詠まれた。580年(大象2年)、襄州刺史に任じられ、大将軍に上った。後に病没した。