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「康帝 (東晋)」の版間の差分

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|陵墓 =崇平陵
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2020年7月23日 (木) 03:33時点における版

康帝 司馬岳
東晋
第4代皇帝
王朝 東晋
在位期間 342年7月27日 - 344年11月17日
都城 建康
姓・諱 司馬岳
世同
諡号 康皇帝
生年 大興5年(322年
没年 建元2年9月26日
344年11月17日
明帝
庾皇后
后妃 褚皇后
陵墓 崇平陵
年号 建元 : 343年 - 344年

康帝(こうてい)は、東晋の第4代皇帝。諱は、字は世同明帝の子で、咸康8年(342年)に同母兄である成帝の死により、急遽皇位を継ぎ、在位2年ほどで早逝した。

生涯

康帝は明帝の次男。325年に明帝が死ぬと成帝が即位し、康帝は呉王、後に琅邪王に封ぜられた。

即位当時、成帝には幼い子(数え2歳の司馬丕と、数え1歳の司馬奕)がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた庾冰により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である司馬岳が皇位に就けられた。

短い治世のほとんどは後趙石虎との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る桓温が頭角を現している。しかし皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどの23歳、病気で兄と同様に早逝した。

宗室

后妃

  • 穆帝 司馬聃(彭子)- 母は褚皇后

関連項目