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「元帝 (東晋)」の版間の差分

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建興4年([[316年]])、漢の[[劉聡]]による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した{{Efn|厳密には、当時、琅邪王司馬睿の他にも、南陽王[[司馬保]]・譙王[[司馬承]]・西陽王[[司馬羕]]・新蔡王[[司馬滔]]・ 楽成王[[司馬欽]]・南頓王[[司馬宗]]・汝南王[[司馬祐]]・彭城王[[司馬雄]]・高密王[[司馬紘]]・梁聲王[[司馬翘]]ら少なくない数の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており([[五馬渡江]])、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。}}。これが、'''東晋'''の'''元帝'''である。
建興4年([[316年]])、漢の[[劉聡]]による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した{{Efn|厳密には、当時、琅邪王司馬睿の他にも、南陽王[[司馬保]]・譙王[[司馬承]]・西陽王[[司馬羕]]・新蔡王[[司馬滔]]・ 楽成王[[司馬欽]]・南頓王[[司馬宗]]・汝南王[[司馬祐]]・彭城王[[司馬雄]]・高密王[[司馬紘]]・梁聲王[[司馬翘]]ら少なくない数の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており([[五馬渡江]])、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。}}。これが、'''東晋'''の'''元帝'''である。


しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王[[司馬保]]は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄の[[王敦]]らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における[[王氏#琅邪王氏|琅邪王氏]]の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である[[前漢]]の末裔である[[劉隗]]と[[チョウ協|刁協]]を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、[[永昌 (東晋)|永昌]]元年に逆に王敦に反乱を起こされ、刁協やほかにも重臣であった[[戴淵]]・[[周顗]]らを殺害され、劉隗は北方の[[後趙]]に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。
しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王[[司馬保]]は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄の[[王敦]]らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における[[王氏#琅邪王氏|琅邪王氏]]の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である[[前漢]]の末裔である[[劉隗]]と[[刁協]]を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、[[永昌 (東晋)|永昌]]元年に逆に王敦に反乱を起こされ、刁協やほかにも重臣であった[[戴淵]]・[[周顗]]らを殺害され、劉隗は北方の[[後趙]]に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。


それからほどなくして、48歳で崩御した。
それからほどなくして、48歳で崩御した。

2020年7月23日 (木) 03:48時点における版

元帝 司馬睿
東晋
初代皇帝
王朝 東晋
在位期間 317年4月6日 - 323年1月3日
都城 建康
姓・諱 司馬睿
景文
諡号 元皇帝
廟号 中宗
生年 咸寧2年(276年
没年 永昌元年閏11月10日
323年1月3日
司馬覲
夏侯光姫
后妃 ない
陵墓 建平陵
年号 建武 : 317年 - 318年
大興 : 318年 - 321年
永昌 : 322年

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫で、琅邪武王司馬伷の孫にあたる。また、母方を通して夏侯淵の外玄孫でもある。

生涯

河内郡温県の人。西晋の琅邪恭王司馬覲の子として洛陽に生まれる。生母は夏侯光姫夏侯威の孫娘)。弟に東安王司馬渾がいる。15歳で琅邪王に封じられる。建武元年、当時権勢を誇っていた成都王司馬穎の討伐に参戦するが失敗し恵帝と共にで司馬穎の監視下に置かれた。保身のために鄴を脱出し洛陽で母に会い共に封国の琅邪に戻った。途中、黄河の渡し場を渡るときに見とがめられて留置されそうになった。司馬穎が一族を手元にとどめて監視し、地方に自由に去ることを禁じていたからである。そこに遅れてやってきた従者が追いついて司馬睿の馬を鞭でこづきながら「舎長!政府は貴人の通行を禁じているそうだが、お前も止められたのか」と言って笑って見せた。その様子を見て、役人は通行を許した[1][2]

司馬穎が東海王司馬越に殺害された直後に、司馬越により永嘉元年に安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられる。その頃朝廷の衰退を予測した近侍の王導の献策に従い、建業に赴く。その際に賢人を厚くもてなし江東をよく平定したといわれている。

永嘉4年(310年)、洛陽の危機状況から寿春にいた征東将軍の周馥は寿春への遷都を計画したが、司馬越は裴碩らに周馥討伐を命じ、懐帝の江南遷都を不可能にした。

永嘉5年(311年)、懐帝が匈奴系である漢(後の前趙)の捕虜となり平陽に連れ去られると、司空の荀藩から推されて盟主となった。江州刺史の華軼が服従しなかったので討伐して江州を支配下に置いた。建興元年懐帝を継いで愍帝が即位すると、丞相・大都督・中外諸軍事となり江東の政務・軍事の全てを取り仕切るようになる。

建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋元帝である。

しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄の王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗刁協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年に逆に王敦に反乱を起こされ、刁協やほかにも重臣であった戴淵周顗らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。

それからほどなくして、48歳で崩御した。

出生に関する異説

北斉で編纂された『魏書』は、北斉が北方の王朝であることから江南の東晋の正統性を認めておらず、の司馬睿(司馬「叡」表記)で呼んでいる。また、牛金の隠し子と主張している[注釈 2]

宗室

妻妾

  • 正室:虞孟母(即位前没、皇后を追贈された)
  • 側室:荀氏(即位前生別した)、夫人鄭阿春、婕妤石氏、才人王氏

子女

脚注

注釈

  1. ^ 厳密には、当時、琅邪王司馬睿の他にも、南陽王司馬保・譙王司馬承・西陽王司馬羕・新蔡王司馬滔・ 楽成王司馬欽・南頓王司馬宗・汝南王司馬祐・彭城王司馬雄・高密王司馬紘・梁聲王司馬翘ら少なくない数の晋宗室王は健在であり、また晋宗室王の何人かは混乱の中で司馬睿と共に長江を渡り東晋建立に尽力しており(五馬渡江)、東晋の時代も引き続き王室の一角を支えている。
  2. ^ 晋書』元帝本紀が引く「玄石図」という石碑の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という文章が記されていた。そのため曾祖父の司馬懿は牛氏(牛金のこと)を深く恨み、毒酒を飲ませて殺害した、という内容である。さらに、母の夏侯光姫は「小役人の牛氏(牛金とは別人。孫盛『晋陽秋』によれば、名は牛欽)と密通して、東晋の初代皇帝になる司馬睿を生んだ」とされる逸話がある。引き続き『晋書』以前の『魏書』(北魏書)にある「僭晋司馬叡伝」に「司馬睿は夏侯光姫と晋将の牛金が姦通して生まれた子である」という記録が残っているとされるが、時代が合致しない。牛金が司馬懿に毒殺されたことも、元帝が牛氏の血筋を引く確証性は乏しく、元帝自身が牛金の隠し子とする逸話の真偽の程は不明である。

出典

  1. ^ 『晋書』巻六「元帝紀」
  2. ^ 宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』〈中公文庫〉1988年、144頁。ISBN 4122015464 

関連項目