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旧制・東京府立第一髙等女学校(現在の[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京都立白高等学校]])に入学するも、中途退学し<ref name="kotobank" />、満11歳になる1912年(大正元年)に「とりで社」に参加して新劇女優になる<ref name="kotobank" />。満13歳になる1914年(大正3年)、新劇俳優の青山杉作と結婚し、「青山万里子」となる<ref name="kotobank" />。


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満20歳となる1921年(大正10年)、[[日活向島撮影所]]に入社し、映画女優に転向した<ref name="kotobank" />。同撮影所は女性の役柄を[[女形]]に演じさせていたが、第三部を創設し、女優の出演する映画をつくりはじめ、これに出演した。1923年(大正12年)には女優がふつうに出演するようになり、第三部は消滅している。同年9月1日、関東大震災が起きて同撮影所は壊滅し、青山は京都の[[マキノ・プロダクション]]に移籍した。1924年(大正13年)、[[東亜キネマ]][[甲陽撮影所]]に移籍した。

2020年7月24日 (金) 06:48時点における版

あおやま まりこ
青山 万里子
本名 内田 ヨネ うちだ よね、出生名
青山 ヨネ あおやま よね、結婚後
別名義 内田 鞠子 うちだ まりこ
江波 マリ子 えなみ まりこ
生年月日 (1901-12-22) 1901年12月22日
没年月日 (1973-10-29) 1973年10月29日(71歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市(現在の東京都
職業 女優
ジャンル 新劇映画
活動期間 1912年 - 1973年
配偶者 青山杉作
著名な家族 内田誠 伯父
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青山 万里子(あおやま まりこ、1901年12月22日 - 1973年10月29日[1])は、日本の女優である。出生名は内田 ヨネ(うちだ よね)、青山杉作との結婚後の本名は青山 ヨネ(あおやま よね)、ほかに内田 鞠子(うちだ まりこ)、江波 マリ子(えなみ まりこ)とも名乗った[1]

人物・来歴

1901年(明治34年)12月22日東京府東京市(現在の東京都)に「内田ヨネ」として生まれる[1]。伯父に随筆家内田誠がいる[1]

旧制・東京府立第一髙等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校)に入学するも、中途退学し[1]、満11歳になる1912年(大正元年)に「とりで社」に参加して新劇女優になる[1]。満13歳になる1914年(大正3年)、新劇俳優の青山杉作と結婚し、「青山万里子」となる[1]

満20歳となる1921年(大正10年)、日活向島撮影所に入社し、映画女優に転向した[1]。同撮影所は女性の役柄を女形に演じさせていたが、第三部を創設し、女優の出演する映画をつくりはじめ、これに出演した。1923年(大正12年)には女優がふつうに出演するようになり、第三部は消滅している。同年9月1日、関東大震災が起きて同撮影所は壊滅し、青山は京都のマキノ・プロダクションに移籍した。1924年(大正13年)、東亜キネマ甲陽撮影所に移籍した。

1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、1936年(昭和11年)には同撮影所が松竹大船撮影所に移転、閉鎖するにともない、青山も異動した。

1973年(昭和48年)10月29日、死去した[1]。満71歳没。

おもなフィルモグラフィ

すべて「青山万里子」名義、すべて出演である。

日活向島撮影所

1922年
1923年

マキノプロダクション等持院撮影所

1924年

東亜キネマ甲陽撮影所

1924年
1925年
1926年
  • 『春の歌』 : 監督賀古残夢 - 重蔵の妻おたよ
  • 『叛逆者』 : 監督根津新

松竹蒲田撮影所

1927年
1928年
1929年
1930年
1931年
1932年
1934年
  • 浮草物語』 : 監督小津安二郎 - 床屋のかみさん
1935年

松竹大船撮影所

1936年
1940年
  • 『信子』 : 監督清水宏 - 炊事の婆さん
1941年
1942年
1943年
1954年

東宝

1958年

  1. ^ a b c d e f g h i 青山万里子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年1月6日閲覧。

外部リンク