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'''周 馥'''(しゅう ふく、''Zhou Fu''、[[1837年]] - [[1921年]])、字は'''玉山'''。[[清]]末の官僚。
'''周 馥'''(しゅう ふく、''Zhou Fu''、[[1837年]] - [[1921年]])、字は'''玉山'''。[[清]]末の官僚。


[[安徽省]][[東至県|建徳]]出身。[[1862年]]から[[李鴻章]]の幕僚を務めた後、[[1877年]]に永定河道に就任し、[[天津市|天津]]周辺の治水にあたった。[[1881年]]、津海関道に異動になり、[[1883年]]から天津兵備道を兼ねた。[[清仏戦争]]が勃発すると李鴻章の命令で沿岸の住民を組織して防衛にあたった。周馥は李鴻章を補佐すること30年余りに及び、海軍創設、電報局・鉄道・鉱山の創立など[[洋務運動]]を推進した。その功績を[[愛新覚羅奕ケン|醇親王奕譞]]に認められ、直隷按察使に昇進した。
[[安徽省]][[東至県|建徳]]出身。[[1862年]]から[[李鴻章]]の幕僚を務めた後、[[1877年]]に永定河道に就任し、[[天津市|天津]]周辺の治水にあたった。[[1881年]]、津海関道に異動になり、[[1883年]]から天津兵備道を兼ねた。[[清仏戦争]]が勃発すると李鴻章の命令で沿岸の住民を組織して防衛にあたった。周馥は李鴻章を補佐すること30年余りに及び、海軍創設、電報局・鉄道・鉱山の創立など[[洋務運動]]を推進した。その功績を[[愛新覚羅奕|醇親王奕譞]]に認められ、直隷按察使に昇進した。


[[1894年]]に[[日清戦争]]が発生すると[[丹東市|安東]]・[[遼陽市|遼陽]]などで補給にあたった。[[下関条約]]調印後辞職したが、[[1899年]]に四川布政使として再起用された。[[1900年]]に[[義和団の乱]]が発生し、8ヶ国連合軍が[[北京市|北京]]を占領すると、李鴻章が議和大臣・[[直隷総督]]に起用され、周馥も直隷布政使に任命された。周馥は[[教案]]の解決に尽力し、[[1901年]]に李鴻章が死去すると直隷総督代理を務めた。
[[1894年]]に[[日清戦争]]が発生すると[[丹東市|安東]]・[[遼陽市|遼陽]]などで補給にあたった。[[下関条約]]調印後辞職したが、[[1899年]]に四川布政使として再起用された。[[1900年]]に[[義和団の乱]]が発生し、8ヶ国連合軍が[[北京市|北京]]を占領すると、李鴻章が議和大臣・[[直隷総督]]に起用され、周馥も直隷布政使に任命された。周馥は[[教案]]の解決に尽力し、[[1901年]]に李鴻章が死去すると直隷総督代理を務めた。

2020年7月24日 (金) 07:05時点における版

周馥

周 馥(しゅう ふく、Zhou Fu1837年 - 1921年)、字は玉山末の官僚。

安徽省建徳出身。1862年から李鴻章の幕僚を務めた後、1877年に永定河道に就任し、天津周辺の治水にあたった。1881年、津海関道に異動になり、1883年から天津兵備道を兼ねた。清仏戦争が勃発すると李鴻章の命令で沿岸の住民を組織して防衛にあたった。周馥は李鴻章を補佐すること30年余りに及び、海軍創設、電報局・鉄道・鉱山の創立など洋務運動を推進した。その功績を醇親王奕譞に認められ、直隷按察使に昇進した。

1894年日清戦争が発生すると安東遼陽などで補給にあたった。下関条約調印後辞職したが、1899年に四川布政使として再起用された。1900年義和団の乱が発生し、8ヶ国連合軍が北京を占領すると、李鴻章が議和大臣・直隷総督に起用され、周馥も直隷布政使に任命された。周馥は教案の解決に尽力し、1901年に李鴻章が死去すると直隷総督代理を務めた。

その後、山東巡撫に就任し、兵部尚書待遇を加えられた。元巡撫の袁世凱と共同で済南周村濰県の開港を上奏し、認可されている。さらに両江総督両広総督を歴任し、1907年に病で引退。死後、愨慎の諡号を贈られた。

子の周学熙は実業家となった。

出典

先代
張人駿
山東巡撫
1902-1904
次代
胡廷幹
先代
李興鋭
両江総督
1904-1906
次代
端方(ドゥワンファン)
先代
端方(ドゥワンファン)
閩浙総督
1906
次代
丁振鐸
先代
岑春煊
両広総督
1906-1907
次代
岑春煊