「ハプニング解散」の版間の差分
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2020年7月25日 (土) 04:14時点における版
ハプニング解散(ハプニングかいさん)は、1980年5月19日の衆議院解散の通称。内閣不信任案可決により行われた。与野党共に不測の解散であったことからこう称される。
経緯
前年1979年に、与党・自民党議員の首相指名選挙での投票先がほぼ二分されるという日本国憲法施行以来前代未聞の事態(四十日抗争)があった1980年5月16日、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑・KDD事件・鉄建公団不正経理事件など、一連の自民党政治下でのスキャンダルを理由として、衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。
これに先立ち、社公民の野党3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は不信任案提出で合意したのに対し、民社党は春日一幸顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた佐々木良作委員長が提出に難色を示すが[1]、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・玉澤徳一郎を通じて衆院本会議に上程された。
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会の延長を決定。しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込む。灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し、午後5時5分に開会を宣言[2][3]。前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グループなどの議員69人は本会議を欠席した。討論では以下の6人が代表して発言した[3]。
発言者 | 会派 | 発言内容 | |
---|---|---|---|
1 | 飛鳥田一雄 | 日本社会党 | 提案の趣旨の説明 |
2 | 大野明 | 自由民主党 | 反対 |
3 | 広瀬秀吉 | 日本社会党 | 賛成 |
4 | 近江巳記夫 | 公明党・国民会議 | 賛成 |
5 | 中島武敏 | 日本共産党・革新共同 | 賛成 |
6 | 渡辺武三 | 民社党・国民連合 | 賛成 |
このあと記名投票で採決がなされた。中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、本会議場において森喜朗等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。
内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決され[4]、午後6時52分に本会議は閉会した[3]。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。大平内閣は午後7時6分、臨時閣議で衆議院解散をすることを決定した[5][6]。
5月19日、灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。大平首相は解散を選んだ理由として「確かに道は解散か総辞職の二つある。私は総辞職をする理由もないし、不信任の理由は承認できないので、これに対して政府と国会という立場で原点に返って国民の判断を仰ぐのが憲政の常道と解散を決意した」と答えている。
5月20日、内閣は6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施することを決定[6]。史上初の衆参同日選挙となった。野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し、結果として解散に至ったため、「ハプニング解散」と呼ばれる。当初から不信任案可決ー解散の流れを警戒していた春日は可決後、「切れないノコギリを自分の腹に当てやがって」(首相を退陣に追い込むどころか提出した側が全員失職した意)と野党の未熟ぶりを嘆いたという。
なお、大平首相は新聞記者に対し「政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあってもどうということはない。俺も鳩山内閣不信任案に欠席をしたことがある。政党は分離と独立を繰り返していくものだ。昨年の首班指名の時は別の名前を書かれたが、今回は欠席だから状況はよくなっている。諸君は事実上の分裂選挙と言うが、総裁以下号令一下、挙党一致で闘ったことなど一度もないんだよな」と語っている。
自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。
衆参同日選挙
5月30日に第12回参議院議員通常選挙が公示され、6月2日に第36回衆議院議員総選挙が公示された[7]。
当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平が急死するという緊急事態が起こる[8]。それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した[9]。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
これは自民党に多くの同情票が集まったためと言われることが多いが、一方で石川真澄などは「四十日抗争、ハプニング解散、そして現職首相の総選挙中の死という異常な出来事が1年の間に次々と起きたことが、有権者の政治への興味、関心を高め、投票所に向かわせたことが勝因である」との見解を示している。また、一般的には敗北とみなされている前年の衆院選でも、自民党の得票率は回復傾向を見せていた。自民党の勝利は、都市部で投票率が大きく上がり、それがそのまま得票増になったところが大きく、都市住民の自民回帰も指摘された。
ともあれ、大平の死によって形としては党の一致団結を見せたものの、解散の引き金となった福田・三木派といった反主流派は、ポスト大平において声を上げることが困難となり、大平派の幹部でそれまで総裁候補と認識されていなかった鈴木善幸の後継選出につながった。ギリギリの判断で不信任案反対に回った中曽根は後継を逃したものの、この混乱過程で主流派入りを宣言し、行管庁長官という立場でポスト鈴木の最右翼につけることになった。こうして、ハプニング解散は以後の自民党政治の帰趨に大きな影響を与えたといえる。
内閣不信任案に欠席した自民党議員
必要に応じて出席者も明記した。
福田派
- 欠席35人 - 山口シヅエ、中野四郎、坊秀男、福田赳夫、田中龍夫、渡海元三郎、始関伊平、久保田円次、安倍晋太郎、三ッ林弥太郎、塩川正十郎、福家俊一、加藤六月、田辺国男、村田敬次郎、森喜朗、山崎平八郎、国場幸昌、三塚博、中島源太郎、越智通雄、小泉純一郎、松本十郎、村上茂利、鹿野道彦、石橋一弥、大塚雄司、佐藤隆、佐野嘉吉、田名部匡省、狩野明男、中村正三郎、亀井静香、吹田愰、宮下創平
- 病欠1人 - 宇野亨
- 出席13人 - 倉石忠雄、早川崇、秋田大助、白浜仁吉、正示啓次郎、細田吉蔵、藤尾正行、三枝三郎、玉沢徳一郎、塚原俊平、石川要三、池田淳、佐藤一郎
三木派
- 欠席25人 - 三木武夫、井出一太郎、田中伊三次、赤城宗徳、河本敏夫、加藤常太郎、森山欽司、丹羽兵助、毛利松平、渋谷直蔵、海部俊樹、藤井勝志、伊藤宗一郎、谷川和穂、鯨岡兵輔、菅波茂、坂本三十次、橋口隆、近藤鉄雄、森美秀、山下徳夫、志賀節、辻英雄、北川石松、工藤巌
- 出席6人 - 石田博英、野呂恭一、大西正男、有馬元治、塩谷一夫、地崎宇三郎
中川派
中曽根派
大平派
- 欠席1名 - 福永健司
- 総裁派閥の福永であるが、病気入院のため本会議に出席できなかった。
無派閥
- 欠席1名 - 小坂善太郎
- 急病を理由に欠席したが、かつて宏池会内の主導権争いで大平と対峙し、その後大平派を脱退した経緯があり、この頃三木派の若手を中心とした派閥横断グループを主宰していたこともあって、確信犯ではないかと疑われた。
脚注
- ^ つまり、自民党の不祥事が続いたせいもあって気勢を上げるためにも内閣不信任案を提出したいが、前年に総選挙があったばかりなので実際に不信任案可決・解散になっては困るというのが社公民の立場で、自民党反主流派の動きが不穏で実際に可決されかねないので提出を見送るべきだというのが春日の分析であった。
- ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (1) 第一議員会館 突然の解散に驚き 内田秘書が最後の務め」 『朝日新聞』1980年10月16日付朝刊、三河版西。
- ^ a b c “第91回国会 衆議院 本会議 第25号 昭和55年5月16日”. 国会会議録検索システム. 2020年7月23日閲覧。
- ^ “中日ニュース No.1375_2 「衆院解散、総選挙へ -大平内閣不信任案を可決-」”. 中日映画社 (2017年3月8日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (34) 非常招集 自民クが候補者選び 議員同士のキ裂鮮明に」 『朝日新聞』1980年12月5日付朝刊、三河版西。
- ^ a b “年譜 昭和55年5月”. 公益財団法人大平正芳記念財団. 2020年7月22日閲覧。
- ^ “中日ニュース No.1377_3「衆・参ダブル選挙スタート」”. 中日映画社 (2017年3月8日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ “中日ニュース No.1379_3「大平首相、急死」”. 中日映画社 (2017年3月8日). 2020年7月22日閲覧。
- ^ “中日ニュース No.1380_2「自民党、圧勝 -衆院ダブル選挙-」”. 中日映画社 (2017年3月8日). 2020年7月22日閲覧。
参考文献
- 福永文夫『大平正芳…「戦後保守」とは何か』(初版)中央公論新社〈中公新書〉(原著2008年12月20日)。ISBN 9784121019769。
関連項目
- バカヤロー解散
- 四十日抗争
- 衆参同日選挙
- 第36回衆議院議員総選挙
- 第12回参議院議員通常選挙
- 鈴木善幸 - ハプニング解散後の自由民主党総裁
- 伊東正義 - 当時の官房長官で、「大平を殺した」と福田・三木のことを終生許さなかった。
- 加藤の乱 - 加藤は当時官房副長官を務めており、官邸内からこの動きを見ていた。後に加藤の乱を起こした際は、このことを強く意識していたとされる。