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以前、呂蒙の病が篤くなった時、孫権が問うた。「そなたがもし起ちあがれなくなったら、誰が代わる事ができようか?」呂蒙はこう答えた。「朱然は胆が大きく節操を守っているので、愚見によるならば、彼に任せる事ができます」これにより呂蒙が死ぬと、孫権は朱然に節を授けて江陵を鎮守させた。 |
以前、呂蒙の病が篤くなった時、孫権が問うた。「そなたがもし起ちあがれなくなったら、誰が代わる事ができようか?」呂蒙はこう答えた。「朱然は胆が大きく節操を守っているので、愚見によるならば、彼に任せる事ができます」これにより呂蒙が死ぬと、孫権は朱然に節を授けて江陵を鎮守させた。 |
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曹丕の3方面侵攻では江陵の防衛に当たり、10万余の魏軍と対決する。曹丕は宛に進駐し、自ら親征軍を指揮し曹休・曹真・曹仁らにに加勢させた。張郃の大軍により呉の援軍の[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]が敗れ、江陵中洲を占領した。[[曹真]]は大軍を率いて牛渚屯を破ると、[[夏侯尚]]は3万人を率いて諸葛瑾を破り、彼等は江陵を包囲した。一方、曹丕は毎日、曹真・夏侯尚らに絶え間なく援軍を送り、向こう岸に渡る。潘璋・楊粲は包囲網に突入できず、一時後退した。江陵城は数重に包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減し、患う者多く、戦える兵は5000ほどであった。朱然は、外部との連絡が絶えてしまった。曹真らは、土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると、城壁のすぐそばから矢を雨のように射掛けた。しかし朱然は悠然として恐れる色も見せず、軍吏や兵士たちを励まし、敵の間隙を窺い、城を出て魏軍の包囲網に突き込み<ref> 『建康実録』</ref>、相次いで魏軍の二つの陣地を撃ち破り、城に帰って守備を固めた。包囲は半年に及び、朱然の守る江陵は破れず、呉軍からは内通者も出たが、朱然は内通者の存在をつきとめ死刑にした。結局、魏の曹丕・[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[辛毗]]・[[董昭]]・[[ |
曹丕の3方面侵攻では江陵の防衛に当たり、10万余の魏軍と対決する。曹丕は宛に進駐し、自ら親征軍を指揮し曹休・曹真・曹仁らにに加勢させた。張郃の大軍により呉の援軍の[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]が敗れ、江陵中洲を占領した。[[曹真]]は大軍を率いて牛渚屯を破ると、[[夏侯尚]]は3万人を率いて諸葛瑾を破り、彼等は江陵を包囲した。一方、曹丕は毎日、曹真・夏侯尚らに絶え間なく援軍を送り、向こう岸に渡る。潘璋・楊粲は包囲網に突入できず、一時後退した。江陵城は数重に包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減し、患う者多く、戦える兵は5000ほどであった。朱然は、外部との連絡が絶えてしまった。曹真らは、土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると、城壁のすぐそばから矢を雨のように射掛けた。しかし朱然は悠然として恐れる色も見せず、軍吏や兵士たちを励まし、敵の間隙を窺い、城を出て魏軍の包囲網に突き込み<ref> 『建康実録』</ref>、相次いで魏軍の二つの陣地を撃ち破り、城に帰って守備を固めた。包囲は半年に及び、朱然の守る江陵は破れず、呉軍からは内通者も出たが、朱然は内通者の存在をつきとめ死刑にした。結局、魏の曹丕・[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[辛毗]]・[[董昭]]・[[張郃]]・[[徐晃]]・[[満寵]]・[[文聘]]らは朱然を攻め敗れず、江陵城を落せず撤退した。この時、水陸二方面から潘璋・諸葛瑾軍と共に撤退中の魏軍を挟撃し、魏軍を撃退することに成功した。この攻防戦で朱然の名は敵国(魏・蜀)にも鳴り響く事になり、当陽侯に改封された。 |
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[[226年]]、孫権は曹丕の死に乗じて江夏を攻めたが、文聘は動揺せず江夏郡の石陽城を堅守した。曹叡が援軍に荀禹を派遣して孫権の後方を撹乱したこともあり、孫権は20余日で包囲を解き、殿軍を潘璋に任せて撤退する。夜間に撤退の途中で混乱が生じ、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破った。朱然は、すぐさま取ってかえすと敵を食い止め、自軍の撤退が成功したのを見届けてから自身も悠々と退却した。孫奐は江夏郡の高城を落としたが、文聘は朱然に阻まれ大戦果を挙げることはできなかった。 |
[[226年]]、孫権は曹丕の死に乗じて江夏を攻めたが、文聘は動揺せず江夏郡の石陽城を堅守した。曹叡が援軍に荀禹を派遣して孫権の後方を撹乱したこともあり、孫権は20余日で包囲を解き、殿軍を潘璋に任せて撤退する。夜間に撤退の途中で混乱が生じ、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破った。朱然は、すぐさま取ってかえすと敵を食い止め、自軍の撤退が成功したのを見届けてから自身も悠々と退却した。孫奐は江夏郡の高城を落としたが、文聘は朱然に阻まれ大戦果を挙げることはできなかった。 |
2020年7月26日 (日) 09:18時点における版
朱然 | |
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朱然文化公園の朱然像 | |
呉 左大司馬・右軍師・当陽侯 | |
出生 |
182年 揚州丹陽郡故鄣県 |
死去 | 249年 |
拼音 | Zhū Rán |
字 | 義封 |
別名 | 初名:施然(Shī Rán) |
主君 | 孫権 |
朱 然(しゅ ぜん、182年 - 249年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。呉に仕えた。字は義封。丹陽の人。朱治の甥で養子。朱績(施績)の父。『三国志』呉志に伝がある。韓愈の著した『施先生墓銘』によれば、祖父は後漢の大尉であった施延[1][2]とされる。
略歴
若き日
朱治の姉の子であり元来の姓は施氏。朱治に子がなかった事から、13歳の頃孫策の仲立ちで朱家の嗣子となる。孫策は丹陽郡の役所に命じて、羊の肉と酒を供え朱然を召しださせ、呉に到着後は厚く礼遇した。
かつて孫権と机を並べて書物を学び、恩愛を結んだ。孫権が孫策の跡を継ぐと、19歳で会稽郡の余姚県令となった。後に山陰県令に昇進し、折衝校尉を加えられ、5つの県を管轄下においた。孫権は朱然を高く評価し、わざわざ丹陽郡を分割して臨川郡を設置すると、朱然を臨川郡の太守に昇進させ、兵士2000人を預かる身分とした。その頃、山越の不服従民の反乱が起きるが、朱然はこれを1ヶ月で平定した。
孫呉の中核を担う
217年、曹操が濡須へ侵攻してくると、朱然は大塢と三関屯の防備にあたり、功績により偏将軍の位を与えられた。戦いの後、周泰の下におかれることを徐盛と共に不満に思った事もあるが、孫権が周泰の功績を強調したため納得している(「周泰伝」)。
219年の関羽討伐戦では呂蒙に従い、潘璋とともに別働隊の指揮を執り臨沮に赴き、関羽を生け捕りにするという大功を立てている。呂蒙が危篤となった折朱然を後継に推薦した。孫権は朱然に仮節を与え、江陵の守備につかせた。
222年、蜀漢を興した劉備が宜都に攻め寄せてくると陸遜と共に防衛に当たり、別働隊を指揮して劉備軍の先鋒を破り、その退路を遮断し、劉備を敗走させた(夷陵の戦い)。徐盛・潘璋・宋謙らは永安(白帝城)に逃げ延びた劉備の追撃を求めたが、朱然は魏の曹丕の動向が不審だとして駱統と共に慎重論を唱えた。陸遜は朱然たちを支持し、孫権もこれに同意した(「陸遜伝」)。征北将軍・永安侯になった。
以前、呂蒙の病が篤くなった時、孫権が問うた。「そなたがもし起ちあがれなくなったら、誰が代わる事ができようか?」呂蒙はこう答えた。「朱然は胆が大きく節操を守っているので、愚見によるならば、彼に任せる事ができます」これにより呂蒙が死ぬと、孫権は朱然に節を授けて江陵を鎮守させた。
曹丕の3方面侵攻では江陵の防衛に当たり、10万余の魏軍と対決する。曹丕は宛に進駐し、自ら親征軍を指揮し曹休・曹真・曹仁らにに加勢させた。張郃の大軍により呉の援軍の孫盛が敗れ、江陵中洲を占領した。曹真は大軍を率いて牛渚屯を破ると、夏侯尚は3万人を率いて諸葛瑾を破り、彼等は江陵を包囲した。一方、曹丕は毎日、曹真・夏侯尚らに絶え間なく援軍を送り、向こう岸に渡る。潘璋・楊粲は包囲網に突入できず、一時後退した。江陵城は数重に包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減し、患う者多く、戦える兵は5000ほどであった。朱然は、外部との連絡が絶えてしまった。曹真らは、土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると、城壁のすぐそばから矢を雨のように射掛けた。しかし朱然は悠然として恐れる色も見せず、軍吏や兵士たちを励まし、敵の間隙を窺い、城を出て魏軍の包囲網に突き込み[3]、相次いで魏軍の二つの陣地を撃ち破り、城に帰って守備を固めた。包囲は半年に及び、朱然の守る江陵は破れず、呉軍からは内通者も出たが、朱然は内通者の存在をつきとめ死刑にした。結局、魏の曹丕・曹真・夏侯尚・辛毗・董昭・張郃・徐晃・満寵・文聘らは朱然を攻め敗れず、江陵城を落せず撤退した。この時、水陸二方面から潘璋・諸葛瑾軍と共に撤退中の魏軍を挟撃し、魏軍を撃退することに成功した。この攻防戦で朱然の名は敵国(魏・蜀)にも鳴り響く事になり、当陽侯に改封された。
226年、孫権は曹丕の死に乗じて江夏を攻めたが、文聘は動揺せず江夏郡の石陽城を堅守した。曹叡が援軍に荀禹を派遣して孫権の後方を撹乱したこともあり、孫権は20余日で包囲を解き、殿軍を潘璋に任せて撤退する。夜間に撤退の途中で混乱が生じ、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破った。朱然は、すぐさま取ってかえすと敵を食い止め、自軍の撤退が成功したのを見届けてから自身も悠々と退却した。孫奐は江夏郡の高城を落としたが、文聘は朱然に阻まれ大戦果を挙げることはできなかった。
229年、曹叡の三方面侵攻(石亭の戦い)では川の上流で曹休に待ち伏せ攻撃の手はずを調えた。車騎将軍・右護軍・兗州牧に任命された。後に、蜀との取り決め(蜀志「陳震伝」参照)で兗州が蜀の管轄になり、兗州牧は解任された。
234年、孫権は自ら魏の合肥新城に侵攻し、朱然は全琮とともに左右の督に任命され斧鉞を与えられたが、病気が流行したため出征計画が中止された。
その後、孫権は呂壱を起用し陋習を治める。孫権は後に呂壱を処刑し群臣達に謝罪したが、朱然・歩騭・諸葛瑾・呂岱らは「自分は武官なので国政のことはわからない。陸遜や潘濬に聞いてください」と取り合わなかった(呉志「呉主伝」)。
功臣である周瑜の子の周胤は重用されていたものの、229年に罪を犯し流刑に処せられていたが、239年頃より歩騭と諸葛瑾は周胤の赦免を嘆願する上表を孫権にたびたび送った。このときに朱然が全琮ととも同様の上奏をしたという。孫権は群臣達の熱意に絆され周胤を赦免することに決めたが、周胤が既に病死した。
241年4月、孫権は大規模な魏領への侵攻(芍陂の役)を敢行し、朱然もその作戦の一環として魏の樊城を包囲し、呂拠や朱異に命じて樊城の外郭を壊滅した(「朱桓伝」)。朱然の包囲は一ヶ月以上に及び、魏軍は苦戦に苛まれ、一ヶ月以上を経っても解除ことができない。5月に皇太子である孫登が死去するという大事件が起こっており、6月に司馬懿が到着する前に、戦果を挙げた朱然は樊城から無事に撤退した[4]。
242年、朱然は柤中へ侵攻した。軍を各地に分散させていたところを魏の蒲忠と胡質に襲撃されたが、朱然は旗本800人だけでこれを退けた(呉志「朱然伝」、なお魏志「明帝紀」では237年の出来事としている)。
243年頃より勃発した呉の後継者問題(二宮事件)において朱然の動静は明らかではないが、朱績が孫和を支持していたという記録がある(「呉主五子伝」が引く『通語』)。
244年、歩騭と連名で上疏し、蜀の寝返りに備えるよう孫権に注意した(「呉主伝」)。
246年、朱然は上表して、前年に起きた魏からの投降者馬茂による孫権暗殺未遂事件の報復として、再び柤中に侵攻し、曹爽討伐に出る。朱然が柤中に侵入した時、魏住民が沔水を渡って避難。住民の処置について、曹爽は逃げてきた住民を帰すように主張した。司馬懿は反対したが聞き入れられず、柤中で曹爽を大いに破ると、魏軍は大被害を被った。魏軍の数千余人を斬り、難民を数万余人で得ていた(『晋紀』『漢晋春秋』)。歩兵と騎兵を6千率いた魏の李興に退路を絶たれたが夜襲をかけて撃ち破り、5百の敵兵の首を斬り、3台の鼓車を得し、1000人ほどを捕虜にした(「呉主伝」、『太平御覧』)。孫権は朱然が万一に失敗したときのために、上奏の内容を周囲に伏せていたが、朱然が勝利したのを聞いて大いに喜び、左大司馬・右軍師とした。
晩年
諸葛融や歩協といった二世武将が前線に立つ時代となっていたが、孫権は彼等の取りまとめと総指揮を朱然に依頼した。陸遜が245年に亡くなると、朱然だけがかつての功臣の生き残りとなり、孫権はますます朱然を厚遇するようになった。しかし、朱然もまもなく病に倒れることになり、2年間も病床につくことになる。孫権は見舞いの品を送ったり、薬や医者を派遣した。孫権の朱然に対する心遣いは、かつての呂蒙や凌統に対するそれに次ぐほどであった。
病床にあっても職務は遂行しており、248年に江陵に城壁を強化ている(「呉主伝」)。249年、病死した。孫権は喪服をつけ心をこめて哭礼をおこなった。子の朱績が跡を継いだ。
人物
身の丈は7尺(161センチ)に満たないが、はっきりとした性格であり、品行は正しく潔白で、装飾は軍器にのみ施し、その他は全て質素であった。急場にも肝が据わっている事は衆人に及ぶ者なく、呂蒙にも「胆守余りある」と評されている。常に戦場にあり、平時も戦の備えを怠らないため、出撃の度に戦功があった。
陳寿は「朱桓と並んで勇烈な将として名高い」と評している。
三国志演義において
小説『三国志演義』では、関羽討伐戦の時に初登場し、潘璋と共に関羽を捕縛した。続く夷陵の戦いの時には、孫桓と共に迎撃の任務を与えられ、水軍を率いて水路を守る。しかし、孫桓が陸で大敗したため、水上に釘付けになってしまい、援軍を要求せざるを得なくなる。陸遜が劉備を敗走させると、諸将とともに劉備軍に追撃をかけるが、朱然は成都から劉備の救援に来た趙雲に斬られてしまう。
墓
1984年6月に安徽省馬鞍山市雨山区雨山郷の紡績工場の建設予定地で朱然の墓が発見された。盗掘に遭っていたものの、副葬品が多数発掘されている。とりわけ刺(名刺)と謁が同時に出土した事によりこれらが同時代に異なる用途で併用されていたと判明するなど、呉の文化を知る上で貴重な発見とされている。
また1995年には新たに墓室が発掘された。こちらは朱績のものと見られている。
1986年、朱然の墓は省の重点文物保護単位に認定され、「朱然路」という道路が引かれるなど、周辺は保護整備されている。