「文宣帝」の版間の差分
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2020年7月31日 (金) 09:28時点における版
文宣帝 高洋 | |
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北斉 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 北斉 |
在位期間 | 550年 - 559年 |
都城 | 鄴 |
姓・諱 | 高洋 |
字 | 子進 |
諡号 | 文宣皇帝 |
廟号 | 顕祖 |
生年 | 孝昌2年(526年) |
没年 |
天保10年10月10日 (559年11月25日) |
父 | 高歓 |
母 | 婁昭君 |
后妃 | 昭信皇后李祖娥 |
陵墓 | 武寧陵 |
年号 | 天保 : 550年 - 559年 |
文宣帝(ぶんせんてい)は、北朝北斉の初代皇帝。姓は高、諱は洋。本貫は渤海郡蓨県(現在の河北省衡水市景県)。
生涯
東魏の権臣の高歓の次男に生まれる。母は正妻の婁昭君。北魏孝武帝の皇后高氏・高澄・東魏孝静帝の皇后高氏(太原長公主)・高演(孝昭帝)・高湛(武成帝)・高済(博陵王)の同母兄弟にあたる。容貌は醜く、内気で無口であった。幼い頃は才覚が人に気づかれず、見た目は茫洋としていて兄弟や周りから笑われていたが、父親の高歓は真価を見抜いていた。
兄の高澄が部下の蘭京によって殺害されると、後を継いだ高洋は蘭京を誅殺して兄の仇を討った。以後、着実にその後継者としての地位を固め、孝静帝により丞相とされ斉王に封じられた。しかし高洋は、父が立てた傀儡皇帝でしかなかった孝静帝の臣下としての地位に満足せず、武定8年(550年)、25歳の時に孝静帝に禅譲を迫って帝位に即き、北斉を建てた。なお、孝静帝はのちに文宣帝の命で毒殺され、のみならず魏の宗室元氏の一族はことごとく殺されている[1]。
即位当初は政務に力を注ぎ、楊愔を登用して州郡の削減と官僚の削減、加えて富国強兵政策を実施し、農業・塩鉄業・窯業を中心にした経済を背景に、北斉を短期間のうちに国家として成長させた。軍事面では柔然・契丹・高句麗などを攻撃し、勢力範囲の拡大も実現している。
しかししばらくすると政務を省みなくなり、酒色に溺れ、宮城の造営で10万の民を徴用するなど奢侈を極めるようになり、民衆生活を圧迫した。また文宣帝は、自らは漢化した鮮卑族でありながら、その劣等感を常に持っていたために、漢族の大量殺害を実行し、同胞である漢化した鮮卑貴族の利益を維持した。
腐敗した生活は寿命にも影響を与え、34歳で崩御した。文宣帝の死後は北斉内部での混乱がいっそう強まっていった。
人物
- 王朝の創始者だけに有能といえば有能であったが、執念深さと残忍さ、そして死因ともなった酒乱が欠点であり、その勢いで臣下を含めてたくさんの人々が殺害された。有能さと暴君的要素を併せ持った二重面の魔性の人物といえるだろう。
逸話
- 幼い頃、高歓が子供たちの才能を確かめようと、絡まった麻糸を与えては解くように課題を与えた。他の息子たちは解くことができなかったが、高洋はその絡まった糸を刀で断ち切り、「乱れたものは斬らねばならない」と答えた(『北斉書』文宣帝紀、『通鑑記事本末』)。これは「快刀乱麻を断つ」という故事成語のもととなったといわれる。西洋にも似た話が伝わる(ゴルディアスの結び目)。
- ある時、文宣帝が悪酔いしたので、母親の婁氏が鞭を打った。すると文宣帝は非常に怒って「なんだ?この婆さん、他所に嫁に出してしまうぞ!」と叫び、誤って怪我をさせた。酔いが覚めると過ちに気づいて深く後悔し、「私は母上に言ってはならないことを言ってしまった。どうか罪深き私の背中を打って欲しい。打たなければ殺す」と、強引に臣下に自分を杖で打たせ、自ら母に心底から詫びた。
- 長い鋸など処刑道具を常に準備していて、酔うたびに戯れで人を殺した。そのため楊愔は、宮殿の庭に死刑囚用の檻を作った。無論、生贄のためであり、3ヶ月間文宣帝に殺害されなかった者は解放されたという[2]。
- 猜疑心の強い文宣帝は、寵妃の薛嬪と清河王高岳の内通を疑い、高岳を殺害した上、薛嬪の姉を鋸引きの刑で惨殺した。後に薛嬪をも殺し、その骨で琵琶を作らせた。
- 僕射の崔暹が卒去した時、その死を大いに悲しんだ。ある時、文宣帝はその未亡人の李氏に対して問うた。
- 「崔暹のことを思い出すか?」
- 「どうして、忘れられましょうか?」
- 「それならば、崔暹の傍らに行くがよい」
- と自ら剣を抜刀して、李氏を斬り捨てたという。
- 占い師が文宣帝の寿命を占った時、占い師は90年生きると予言したが、さすがに文宣帝は占い師が予言をごまかしたのを見抜いたという(実際に出た結果は30年だった)。
宗室
后妃
子・子孫
- 廃帝 高殷
- 太原王 高紹徳
- 范陽王 高紹義
- 西河王 高紹仁 - 559年に西河王に封じられた。没年不明だが結婚せず、子を残すこと無く夭折したことは確認できる。
- 隴西王 高紹廉
- 公主(高宝德)- 尉世辯(隋の開皇年間に没)に降嫁。子女は確認できない。
- 中山公主 - 段宝鼎(605年没)に降嫁。段宝鼎は段懿と文宣帝の姉妹である潁川長公主の間に生まれた男子である為、いとこ婚をしたことになる。子女は確認できない。
- 某女 - 母は薛嬪。
直系の孫で確認されるのは三男・高紹義の子である高弁才のみである。紹義以外の子女は子供を残していることは確認できず、高弁才にも子孫がいたことが証明できない為、文宣帝の直系子孫はいない。
同母兄弟
同母姉妹
脚注
- ^ 宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』 中公文庫 ISBN 4122015464、301p
- ^ 宮崎、301-302p
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