「陰夔」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
誤った入れ子構造: 箇条書き内のspanタグについて、各行で指定する様に変更 |
|||
36行目: | 36行目: | ||
[[建安 (漢)|建安]]7年([[202年]])の袁紹没後に、長男の[[袁譚]]と三男の袁尚が後継争いを起こした。その際に、[[騎都尉]]の[[崔エン|崔琰]]を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。そのため崔琰は、怒った袁尚に収監されてしまう。袁尚配下の陰夔と[[陳琳]]が取りなしたおかげで、なんとか赦免された。 |
[[建安 (漢)|建安]]7年([[202年]])の袁紹没後に、長男の[[袁譚]]と三男の袁尚が後継争いを起こした。その際に、[[騎都尉]]の[[崔エン|崔琰]]を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。そのため崔琰は、怒った袁尚に収監されてしまう。袁尚配下の陰夔と[[陳琳]]が取りなしたおかげで、なんとか赦免された。 |
||
建安9年([[204年]])、袁尚は、[[ |
建安9年([[204年]])、袁尚は、[[鄴]]を守備する袁尚の参謀[[審配]]を救援するために、鄴を包囲する[[曹操]]軍と戦う。しかし敗北を積み重ね、ついには降伏の使者として陰夔と陳琳を曹操の下に派遣したが、拒絶される。陰夔は都督将軍[[馬延]]・射声校尉[[郭昭]]と共に曹操に投降した。<ref>[[陳琳]]『檄呉将校部曲文』([[蕭統]] 『[[文選]]』巻44に引用)</ref> |
||
小説『[[三国志演義]]』では、曹操への降伏の使者となった時のみ登場している。 |
小説『[[三国志演義]]』では、曹操への降伏の使者となった時のみ登場している。 |
2020年7月31日 (金) 09:33時点における版
陰 夔(いん き、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家、武将。
事跡
姓名 | 陰夔 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 豫州刺史 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁尚 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁紹の三男袁尚の配下。かつては豫州刺史を務めたとされるため、袁氏家臣団の中でもかなり高位の人物と見られる。
建安7年(202年)の袁紹没後に、長男の袁譚と三男の袁尚が後継争いを起こした。その際に、騎都尉の崔琰を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。そのため崔琰は、怒った袁尚に収監されてしまう。袁尚配下の陰夔と陳琳が取りなしたおかげで、なんとか赦免された。
建安9年(204年)、袁尚は、鄴を守備する袁尚の参謀審配を救援するために、鄴を包囲する曹操軍と戦う。しかし敗北を積み重ね、ついには降伏の使者として陰夔と陳琳を曹操の下に派遣したが、拒絶される。陰夔は都督将軍馬延・射声校尉郭昭と共に曹操に投降した。[1]
小説『三国志演義』では、曹操への降伏の使者となった時のみ登場している。