「楊弘 (河間王)」の版間の差分
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[[581年]]、隋が建てられると、楊弘は[[大将軍]]の号を受け、爵位は郡公に進んだ。5月、河間王に立てられ、右衛大将軍の号を受けた。1年あまりして、柱国の位に進んだ。[[突厥]]が隋の北辺を侵すと、楊弘は行軍元帥となり、数万の兵を率いて、霊州道に出て、突厥軍と戦い、撃破した。[[寧州 (甘粛省)|寧州]]総管として出向し、位は上柱国に進んだ。数年後、[[長安]]に召還され、しばらくして[[蒲州 (山西省)|蒲州]]刺史に任じられた。河東で隋に反抗する者100人あまりを投降させ、治安を回復させて、良吏と称された。晋王[[煬帝|楊広]]が入朝すると、楊弘は[[揚州 (古代)|揚州]]総管に任じられたが、楊広が江都に戻ると、楊弘も蒲州に戻された。[[605年]]、楊弘は召還されて、太子太保に任ぜられた。[[606年]]、[[雍州]]牧に任ぜられた。[[607年]]3月、死去した。[[610年]]、郇王に追封された。 |
2020年7月31日 (金) 09:37時点における版
楊 弘(よう こう、? - 607年)は、中国の隋の皇族。河間王。字は辟悪。文帝楊堅の従祖弟にあたる。
経歴
楊元孫(楊忠の叔父の楊愛敬の子)の子として生まれた。北斉統治下の鄴に住んでいたが、楊忠の親族であることを知られるのを恐れ、祖母の郭氏の姓を称した。楊元孫が死去し、北斉が北周に併呑されると、楊弘は関中に入った。楊堅は楊弘のために田宅を買い与えた。幾度か征戦に従って、開府儀同三司に累進した。580年、楊堅が丞相となると、常に側近に控えた。楊堅が北周の趙王宇文招の邸を訪れ、危難に遭うところだったとき、楊弘は戸外に立って、楊堅を守った。まもなく上開府の位を受け、永康県公に封じられた。
581年、隋が建てられると、楊弘は大将軍の号を受け、爵位は郡公に進んだ。5月、河間王に立てられ、右衛大将軍の号を受けた。1年あまりして、柱国の位に進んだ。突厥が隋の北辺を侵すと、楊弘は行軍元帥となり、数万の兵を率いて、霊州道に出て、突厥軍と戦い、撃破した。寧州総管として出向し、位は上柱国に進んだ。数年後、長安に召還され、しばらくして蒲州刺史に任じられた。河東で隋に反抗する者100人あまりを投降させ、治安を回復させて、良吏と称された。晋王楊広が入朝すると、楊弘は揚州総管に任じられたが、楊広が江都に戻ると、楊弘も蒲州に戻された。605年、楊弘は召還されて、太子太保に任ぜられた。606年、雍州牧に任ぜられた。607年3月、死去した。610年、郇王に追封された。
子の楊慶が後を嗣いだ。