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[[魯軌]]の七男として生まれた。策略の持ち主で、才能と実力は兄の[[魯爽]]に勝るとも評価されていた。[[北魏]]の[[太武帝]]の宿衛として仕え、その知遇を得た。北魏の高涼王[[拓跋那]]が[[柔然]]の包囲を受けると、魯秀は救援に赴き、太武帝もその後詰めとして続いた。太武帝が到着しないうちに、魯秀は柔然軍を撃破して、拓跋那を救い出した。その功績により中書郎に任じられ、広陵侯に封じられた。[[鄴]]の民衆が反乱を計画していると太武帝に告げた者があり、太武帝は検察を鄴に派遣し、あわせて[[後趙]]の[[石虎]]時代の宮殿跡を焼かせた。このとき魯秀は病のために帰還が遅れ、太武帝の譴責を受けた。 |
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[[450年]](元嘉27年)、太武帝が南征の軍を起こすと、魯秀もこれに従軍した。[[451年]](元嘉28年)、魏軍が瓜歩から撤退をはじめると、魯秀は兄の魯爽とともに[[宋 (南朝)|南朝宋]]に帰順し、輔国将軍・滎陽潁川二郡[[太守]]に任じられた。南平王[[劉鑠]]の下で参右軍軍事・汝陰内史をつとめた。 |
[[450年]](元嘉27年)、太武帝が南征の軍を起こすと、魯秀もこれに従軍した。[[451年]](元嘉28年)、魏軍が瓜歩から撤退をはじめると、魯秀は兄の魯爽とともに[[宋 (南朝)|南朝宋]]に帰順し、輔国将軍・滎陽潁川二郡[[太守]]に任じられた。南平王[[劉鑠]]の下で参右軍軍事・汝陰内史をつとめた。 |
2020年7月31日 (金) 09:45時点における版
魯 秀(ろ しゅう、生年不詳 - 454年)は、中国の南北朝時代の軍人。小字は天念。本貫は扶風郡郿県。
経歴
魯軌の七男として生まれた。策略の持ち主で、才能と実力は兄の魯爽に勝るとも評価されていた。北魏の太武帝の宿衛として仕え、その知遇を得た。北魏の高涼王拓跋那が柔然の包囲を受けると、魯秀は救援に赴き、太武帝もその後詰めとして続いた。太武帝が到着しないうちに、魯秀は柔然軍を撃破して、拓跋那を救い出した。その功績により中書郎に任じられ、広陵侯に封じられた。鄴の民衆が反乱を計画していると太武帝に告げた者があり、太武帝は検察を鄴に派遣し、あわせて後趙の石虎時代の宮殿跡を焼かせた。このとき魯秀は病のために帰還が遅れ、太武帝の譴責を受けた。
450年(元嘉27年)、太武帝が南征の軍を起こすと、魯秀もこれに従軍した。451年(元嘉28年)、魏軍が瓜歩から撤退をはじめると、魯秀は兄の魯爽とともに南朝宋に帰順し、輔国将軍・滎陽潁川二郡太守に任じられた。南平王劉鑠の下で参右軍軍事・汝陰内史をつとめた。
452年(元嘉29年)、魯爽らとともに4万の兵を率いて、許昌・洛陽方面に進出した。北魏の豫州刺史の拓跋僕蘭の襲撃を受けたが、魯秀は自ら奮戦して撃退した。
453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害したとき、魯秀は建康にいたため、やむなく劉劭に従った。右軍将軍の号を受けて、5000の兵を与えられ、新亭塁を攻撃するよう命じられた。戦いが始まろうとしたとき、魯秀は退却の軍鼓を打って戦闘を回避した。孝武帝に降伏して、左軍将軍の号を受けた。11月、都督司州豫州之新蔡汝南汝陽潁川義陽弋陽六郡諸軍事・輔国将軍・司州刺史に任じられ、汝南郡太守を兼ねた。
454年(孝建元年)2月、兄の魯爽が反乱を起こすと、魯秀も従って起兵し、劉義宣から征虜将軍の号を受けた。雍州刺史の朱修之を襄陽に攻撃したが、敗退した。益州刺史の劉秀之が江陵を攻撃してくると、魯秀はこれを撃退した。6月、劉義宣が敗れて江陵に戻ってくると、魯秀は劉義宣とともに北魏に亡命するべく北に向かった。しかし部下が次々と離反したため、江陵に向かって引き返し、矢に当たり水に入って死んだ。宗敬叔と康僧念に首を斬られて、首級は建康に送られた。