「盧叔虎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
盧光宗の子として生まれた。[[洛陽]]にあってふたりの兄の盧観・盧仲宣とともに文章の才能で知られた。若いころから機転が利き、やくざ者を率い、奇策を好み、[[諸葛亮]]の事跡を慕っていた。[[賀抜勝]]の下で[[荊州]]開府長史となった。賀抜勝は叔虎の進言を用いず、城を棄てて[[梁 (南朝)|南朝梁]]に亡命した。叔虎は涿県に帰り、堤のそばに住居を築いて、悠々自適の生活を送った。[[高澄]]が叔虎を召しだそうとしたが、叔虎は病と称して応じなかった。[[550年]]、北斉が建国されると、再び召集されたので、やむをえず露車に乗って[[ |
盧光宗の子として生まれた。[[洛陽]]にあってふたりの兄の盧観・盧仲宣とともに文章の才能で知られた。若いころから機転が利き、やくざ者を率い、奇策を好み、[[諸葛亮]]の事跡を慕っていた。[[賀抜勝]]の下で[[荊州]]開府長史となった。賀抜勝は叔虎の進言を用いず、城を棄てて[[梁 (南朝)|南朝梁]]に亡命した。叔虎は涿県に帰り、堤のそばに住居を築いて、悠々自適の生活を送った。[[高澄]]が叔虎を召しだそうとしたが、叔虎は病と称して応じなかった。[[550年]]、北斉が建国されると、再び召集されたので、やむをえず露車に乗って[[鄴|鄴都]]に入った。[[楊イン|楊愔]]と面会して、司徒諮議に任じられたが、病と称して受けなかった。 |
||
[[560年]]([[皇建 (北斉)|皇建]]元年)、[[孝昭帝]]が即位すると、召されて太子中庶子となり、銀青光禄大夫の位を加えられた。孝昭帝に世情について諮問されると、叔虎は[[北周]]を討つよう勧めた。また北周平定の策を練るため、西の国境に近い平陽に移り住み、[[元文遙]]とともに『平西策』1巻を編纂した。しばらくして孝昭帝が死去すると、西征の計画は中止された。 |
[[560年]]([[皇建 (北斉)|皇建]]元年)、[[孝昭帝]]が即位すると、召されて太子中庶子となり、銀青光禄大夫の位を加えられた。孝昭帝に世情について諮問されると、叔虎は[[北周]]を討つよう勧めた。また北周平定の策を練るため、西の国境に近い平陽に移り住み、[[元文遙]]とともに『平西策』1巻を編纂した。しばらくして孝昭帝が死去すると、西征の計画は中止された。 |
2020年7月31日 (金) 09:49時点における版
盧 叔虎[1](ろ しゅくこ、生年不詳 - 577年)は、中国の北魏末から北斉にかけての官僚・隠者。本貫は范陽郡涿県。盧文偉の甥にあたる。
経歴
盧光宗の子として生まれた。洛陽にあってふたりの兄の盧観・盧仲宣とともに文章の才能で知られた。若いころから機転が利き、やくざ者を率い、奇策を好み、諸葛亮の事跡を慕っていた。賀抜勝の下で荊州開府長史となった。賀抜勝は叔虎の進言を用いず、城を棄てて南朝梁に亡命した。叔虎は涿県に帰り、堤のそばに住居を築いて、悠々自適の生活を送った。高澄が叔虎を召しだそうとしたが、叔虎は病と称して応じなかった。550年、北斉が建国されると、再び召集されたので、やむをえず露車に乗って鄴都に入った。楊愔と面会して、司徒諮議に任じられたが、病と称して受けなかった。
560年(皇建元年)、孝昭帝が即位すると、召されて太子中庶子となり、銀青光禄大夫の位を加えられた。孝昭帝に世情について諮問されると、叔虎は北周を討つよう勧めた。また北周平定の策を練るため、西の国境に近い平陽に移り住み、元文遙とともに『平西策』1巻を編纂した。しばらくして孝昭帝が死去すると、西征の計画は中止された。
561年(大寧元年)、武成帝が即位すると、儀同三司・都官尚書に任じられ、合州刺史として出向した。武平年間、太子詹事・右光禄大夫に転じた。577年(承光元年)、北斉が滅ぶと、故郷の范陽に帰ったが、兵乱のために城は陥落し、叔虎と族弟の盧士遂は寒さと飢えのために死去した。北周の将軍の宇文神挙が叔虎の徳を慕って、遺体を収容して葬った。