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[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]元年)、曇尚は員外散騎常侍となり、朝廷の意を受けて[[爾朱栄]]のもとに使者として赴き、その動向を観察した。同年([[建義 (北魏)|建義]]元年)、司徒左長史・兼吏部尚書に任じられた。晋陽に赴き、爾朱栄に官を授与した。洛陽に帰ると、永安侯の爵位を受けた。まもなく[[後将軍]]・[[定州]]刺史に任じられた。[[530年]]([[永安 (北魏)|永安]]3年)、爾朱栄が死去すると、曇尚は[[魏蘭根]]に代わって持節・兼尚書・北道行台に任じられた。後に鎮東将軍・金紫光禄大夫となった。[[532年]]([[太昌]]元年)、征東将軍の号を加えられ、行兗州事をつとめた。 |
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東魏の[[天平 (東魏)|天平]]年間、驃騎大将軍・[[斉州]]刺史に任じられた。曇尚は3州の刺史を歴任したが、いずれも貪婪残虐の不評を買った。[[鄴]]に帰り、将作大匠に任じられた。後に在官のまま死去した。享年は61。都督瀛滄二州諸軍事・本将軍・[[儀同三司]]・[[瀛州]]刺史の位を追贈された。 |
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2020年7月31日 (金) 09:50時点における最新版
薛 曇尚(せつ どんしょう、生没年不詳)は、北魏末から東魏にかけての官僚。本貫は代郡。
経歴
[編集]薛虎子の子として生まれた。御史を初任とし、奉朝請を加えられた。517年(熙平2年)、徐州の穀陽戍主に任じられ、行南陽平郡事をつとめた。母が死去すると、服喪のため職を去った。521年(正光2年)、柔然の婆羅門が涼州で北魏への帰順を求めてくると、曇尚は封熙とともにその応接にあたった[1]。正光年間、孝明帝が南朝梁と国境を接する陽平郡に派遣する人材を求めると、蕭宝寅が曇尚を推挙したため、曇尚は陽平郡に赴任した。
525年(孝昌元年)、徐州刺史の元法僧が反乱を起こして梁につくと、曇尚は元法僧の使者を斬って、その首級を安楽王元鑑のもとに送った。曇尚は梁の将軍の王希聃に敗れ、捕らえられて建康に送られた。梁の武帝による礼遇を受け、帰国を望んで許された。洛陽に帰ると、孝明帝によりもとの官に戻された。
528年(武泰元年)、曇尚は員外散騎常侍となり、朝廷の意を受けて爾朱栄のもとに使者として赴き、その動向を観察した。同年(建義元年)、司徒左長史・兼吏部尚書に任じられた。晋陽に赴き、爾朱栄に官を授与した。洛陽に帰ると、永安侯の爵位を受けた。まもなく後将軍・定州刺史に任じられた。530年(永安3年)、爾朱栄が死去すると、曇尚は魏蘭根に代わって持節・兼尚書・北道行台に任じられた。後に鎮東将軍・金紫光禄大夫となった。532年(太昌元年)、征東将軍の号を加えられ、行兗州事をつとめた。
東魏の天平年間、驃騎大将軍・斉州刺史に任じられた。曇尚は3州の刺史を歴任したが、いずれも貪婪残虐の不評を買った。鄴に帰り、将作大匠に任じられた。後に在官のまま死去した。享年は61。都督瀛滄二州諸軍事・本将軍・儀同三司・瀛州刺史の位を追贈された。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『魏書』巻44 列伝第32