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2020年7月31日 (金) 10:03時点における版
司馬 允(しば いん、272年 - 300年)は、西晋の皇族。字は欽度。初代皇帝司馬炎(武帝)の第10子。生母は李夫人。
生涯
289年11月、淮南王に改封され、父の意向により秦王司馬柬・楚王司馬瑋と共に封国(淮南)に赴任した。また、鎮東大将軍・都督揚江二州諸軍事に任じられ、仮節を与えられた。
6月、恵帝(司馬衷)の皇后賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮と録尚書事衛瓘を排斥するため、司馬瑋に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。この時、司馬允は司馬瑋の傘下に入り、宮殿の門を制圧した。8月、諸王に出鎮が命じられると、司馬允もまた封国に帰還した。
299年、再び洛陽に帰還した。12月、賈南風は皇太子司馬遹を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とした。この時、司馬遹に代わって司馬允を皇太弟に立てるべきと言う意見が出たが、結局実行に移されなかった。
300年4月、趙王司馬倫が決起して賈南風を廃位すると、司馬允は驃騎将軍・侍中に任じられ、都督はそのままとされた。さらに開府儀同三司の特権が与えられ、中護軍も兼任した。司馬允は沈毅(落ち着いて物事に動じない様)な気性であったので、宿衛の将士はみな敬服したという。
賈氏一派が粛清されると司馬倫が朝政を専断するようになったが、司馬允は司馬倫が分を弁えずに好き勝手振る舞っているのを不平を抱いた。また、司馬倫が側近孫秀と共に異謀(帝位簒奪)を抱いていると知り、その排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。
8月、司馬倫らは司馬允の不穏な動向を察知して大いに警戒し、対処について謀議した。そして、司馬允を太尉に昇格させる事で中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して辞退した。これを受け、孫秀は御史劉機を派遣し、詔と偽って司馬允の印綬を奪いってその配下を逮捕させると、詔に逆らった大逆不敬の罪で司馬允を弾劾した。
司馬允は詔が孫秀の筆跡だと知ると激怒して劉機を捕えようとしたが、劉機は隙を見て逃走したのでその部下2人を処刑した。さらに、司馬允は近臣へ「趙王が我が家を滅ぼすつもりのようだ!」と言うと、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたので討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と宣言した。宮殿に到着するまでに多くの賛同者を得た。しかし、尚書左丞王輿は掖門を閉じたので、宮中に入るのを諦めて東宮にある司馬倫のいる相国府に向かい、これを包囲した。司馬倫は迎撃に当たったが、司馬允の兵は精鋭揃いであったので、連敗を喫して1000人余りの死者を出した。
太子左率陳徽が東宮の兵を集めて軍鼓を鳴らして司馬允に内から呼応すると、承華門の前で合流した。司馬允はここで陣を構えて雨のように弓弩を降らせた。相国府主書司馬眭秘は身を挺して司馬倫を守り、矢を浴びて死んだ。司馬倫の部下は逃げまどって木の下に隠れ、全ての木に数百の矢が刺さるほどであった。朝から始まった攻勢は昼過ぎまで続き、陳徽の兄である中書令陳準が司馬允を援護しようと思い、司馬衷へ「白虎幡(晋代の符節)を司馬允に渡し、司馬倫が逆賊である事を示して戦いを収めさせるべきです」と言った。陳準は司馬衷を騙して白虎幡を手に入れると、司馬督護伏胤に騎兵400を与え、白虎幡を与えて司馬允の陣に派遣した。だが、司馬倫の子である汝陰王司馬虔が門下省におり、秘かに伏胤へ「今後、2人で富貴を共にしようではないか」と言い、寝返りを持ち掛けると、伏胤はこれに応じた。伏胤は「淮南王(司馬允)を援護する」という偽の詔書を持って司馬允の陣に赴くと、司馬允は警戒せずに門を開いて軍勢を導き入れ、下車して詔を受けようとした所で伏胤に殺された。
これにより司馬允軍は瓦解し、子の秦王司馬郁と漢王司馬迪ともう一人の子も殺害され、数千人が連座して処刑された。司馬倫の兵が敗北した時、司馬倫を捕らえたと言う噂が広まり、万民は大いに歓喜した。後に司馬允が死んだと聞くと、嘆息しない人はいなかった。
司馬倫が誅殺されると、斉王司馬冏は上表して司馬允について論じ、その死を悼んだ。詔が下り、司馬允は改葬されて殊礼を賜り、司徒を追贈され、淮南忠壮王と諡された。司馬允の子はみな殺害されたので、司馬冏の子司馬超が淮南王を継いだ。