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[[元康 (晋)|元康]]年間([[291年]] - [[299年]])、散騎常侍に任じられ、左軍将軍・翊軍校尉を兼務した。当時、叔母の賈南風や[[賈謐]]・[[郭彰]]を始めとした賈氏一族が権勢を誇っており、彼女らは[[皇太子]][[司馬遹]]を偽りの罪で殺害するなど暴虐の限りを尽くしていた。彼女らの専横により政事は腐敗し、賄賂が横行するようになった。 |
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[[300年]]3月、趙王[[司馬倫]]は賈氏の誅殺を目論んでおり、司馬冏に計画を伝えて協力を持ち掛けると、司馬冏はこれに参画する事を約束した。右衛佽飛督[[閭和]]・梁王[[司馬肜]]もまたこの計画に参与した。4月3日、司馬倫は政変を決行すると、偽の詔をもって宮門を開かせた。これを受け、司馬冏は兵100人を率いて宮中へ突入した。賈南風は宮中に乱入して来た司馬冏を見ると驚き「卿は何しに来たか」と問うと、司馬冏は「詔により皇后を捕らえに参りました」と答えた。賈南風は捕縛されると司馬冏へ「変事を起こしたのはいったい誰ですか」と問うた。司馬冏は「梁王(司馬肜)と趙王(司馬倫)です」と答えた。賈皇后は後悔して「犬の首ではなく、尾を繋いでいたのか」と言ったという。賈南風は庶人に落とされて建始殿に幽閉され、賈氏一族も尽く捕らえられた。功績により司馬冏は游撃将軍に任じられた。 |
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2020年7月31日 (金) 10:23時点における版
司馬 冏(しば けい、? - 302年)は、中国の西晋の皇族であり、八王の乱の八王の一人。字は景治。父は斉王司馬攸(武帝司馬炎の同母弟であり、司馬師の猶子)。母は賈荃(建国の功臣賈充の長女で、恵帝の皇后賈南風の異母姉)。
人物
父を継ぐ
幼い頃から慈悲深い人柄で評判であり、貧窮している者へよく施しを行い、父の司馬攸と同じ風格を有していると評された。
283年、司馬攸は中書監荀勗・侍中馮紞と対立しており、彼らより讒言を受けて青州に出鎮を命じられ、朝廷から遠ざけられた。この時、司馬攸は病を発していたので洛陽に留まる事を望んだが、司馬炎は仮病を疑っていたので、典医を派遣して診断させた。すると、その典医らはみな荀勗らの意を受け、病ではないと嘘の報告を行ったので、司馬攸は出立を強要される事となり、赴任の途上で病死した。司馬炎が司馬攸の喪に臨むと、司馬冏はその場に勢いよく乗り込み、大声を挙げて「父の病は医師どもが誣告していたものです。詔で誅して下さい」と訴え、司馬炎はこれを聞き入れて典医たちを誅殺した。この一件で司馬冏は大いに称賛を受け、これにより司馬攸の後を継ぐ事が許され、斉王に封じられた。
賈南風を捕縛
元康年間(291年 - 299年)、散騎常侍に任じられ、左軍将軍・翊軍校尉を兼務した。当時、叔母の賈南風や賈謐・郭彰を始めとした賈氏一族が権勢を誇っており、彼女らは皇太子司馬遹を偽りの罪で殺害するなど暴虐の限りを尽くしていた。彼女らの専横により政事は腐敗し、賄賂が横行するようになった。
300年3月、趙王司馬倫は賈氏の誅殺を目論んでおり、司馬冏に計画を伝えて協力を持ち掛けると、司馬冏はこれに参画する事を約束した。右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜もまたこの計画に参与した。4月3日、司馬倫は政変を決行すると、偽の詔をもって宮門を開かせた。これを受け、司馬冏は兵100人を率いて宮中へ突入した。賈南風は宮中に乱入して来た司馬冏を見ると驚き「卿は何しに来たか」と問うと、司馬冏は「詔により皇后を捕らえに参りました」と答えた。賈南風は捕縛されると司馬冏へ「変事を起こしたのはいったい誰ですか」と問うた。司馬冏は「梁王(司馬肜)と趙王(司馬倫)です」と答えた。賈皇后は後悔して「犬の首ではなく、尾を繋いでいたのか」と言ったという。賈南風は庶人に落とされて建始殿に幽閉され、賈氏一族も尽く捕らえられた。功績により司馬冏は游撃将軍に任じられた。
許昌へ左遷
司馬冏は游撃将軍の位しか貰えなかった事に恨みを抱いており、また司馬倫が好き勝手に国政を専断するようになると、大いに不信感を抱いた。司馬倫の側近である孫秀はこれを察知し、司馬冏の存在を危険視して洛陽内に留めておく事に不安を抱いた。その為、司馬冏は平東将軍に任じられて仮節を与えられると、許昌へ出鎮するよう命じられた。
301年1月、司馬倫は帝位を簒奪した。この時、司馬冏は許昌において強兵を擁していたので、司馬倫はこれを深く憂慮して懐柔を謀った。これにより司馬冏は鎮東大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。
司馬冏は衆人が司馬倫の暴政に怨嗟の声を挙げている事から、密かに討伐を目論むようになった。当時、済陰では王盛が、潁川では王処穆が独自勢力を築いており、司馬冏は密かに王盛・王処穆と結託して司馬倫誅殺の計画を進めた。司馬倫は腹心の張烏を派遣して司馬冏の動向を探らせたが、張烏は司馬冏と密かに結託していたので「司馬冏に異志はありません」と偽りの報告を行った。司馬倫はまた、王盛・王処穆の討伐を名目に配下の管襲を斉王軍司に任じて司馬冏の下に派遣し、監視に当たらせた。管襲が到来すると、司馬冏は計画の発覚を恐れ、管襲に協力して両者を討伐し、首を洛陽に送って司馬倫を安心させた。
決起
司馬冏は謀略が定まると、管襲を捕えて殺し、豫州刺史何勗・龍驤将軍董艾らと共に挙兵した。同時に、成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将新野公司馬歆に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎はこれに応じて兗州刺史王彦・冀州刺史李毅・督護趙驤・石超らを先鋒として兵を起こし、軍が朝歌に入る頃には20万余りの大軍になった。司馬乂は太原内史劉暾と共に兵を率いて司馬穎の後援となり、司馬歆もまた司馬冏を補佐した。司馬顒だけはこれに従わず、振武将軍張方を派遣して司馬倫を援護させたが、後に司馬冏と司馬穎が優勢である事を知ると、張方を撤退させて司馬冏側に寝返った。揚州刺史郗隆(郗鑒の叔父)は檄を承ったが、どちらにも加担しようとしなかったので、参軍王邃は郗隆を斬って首を司馬冏に送り、これに呼応した。
司馬倫は上軍将軍孫輔・折衝将軍李厳に七千人を与えて延寿関から進ませ、征虜将軍張泓・左軍将軍蔡璜・前軍将軍閭和に九千人を与えて崿阪関から進ませ、鎮軍将軍司馬雅・揚威将軍莫原に八千人を与えて成皋関から進ませ、三軍を南下させて司馬冏らの北上を防いだ。また、東平王司馬楙を使持節・衛将軍・都督諸軍事に任じて三軍を統率させた。
司馬冏は張泓・司馬雅らを迎え撃ったが、不利に陥ったので陽翟に駐屯して砦を固守し、敵の進軍を阻んだ。3月、張泓らが陽翟に入ると、城南において司馬冏は迎え撃つも敗北を喫し、数千人が討ち取られて輜重は奪われ、司馬冏は砦を捨てて潁陰まで後退した。4月、司馬冏は兵を分けて潁水を渡って張泓を攻撃させたが、またも敗れた。張泓はこの勢いに乗じて潁上まで追撃し、夜には潁水まで到達してこの地に陣を構えた。司馬冏が少数の兵でその陣営を攻撃すると、張泓らは退かずに迎え撃ったが、夜になると孫輔と徐建の配下が動揺して陣営が乱れ、孫輔らは洛陽まで逃走した。張泓らが諸軍を率いて潁水を渡って司馬冏の陣営を攻めると、司馬冏は反撃に転じて別将孫髦・司馬譚らを破り、その士卒は逃げまどって洛陽へ戻った。張泓らは残った兵を回収すると、陣営に戻った。同時期、司馬穎が黄橋に進んで司馬倫配下の孫会・士猗・許超らの軍3万を撃破すると、司馬冏はこれに乗じて軍を繰り出し、閭和らを攻めて大いに破った。
司馬冏らの挙兵以後、洛陽城内の百官や諸将は司馬倫を殺害して天下に謝罪しようと思い、その機会を窺うようになった。4月7日、左衛将軍王輿・尚書広陵公司馬漼が政変を起こし、司馬倫を廃位して恵帝を復位させた。司馬穎は軍を進めて洛陽に入城すると、趙驤と石超を派遣して司馬冏を援護に当たり、共に張泓らを攻めた。張泓は司馬倫の死を聞くと司馬冏に投降し、張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から軍を撤退させたが、司馬冏はこれらを尽く討伐するか捕縛した。また、司馬冏は襄陽郡太守宗岱に命じて孫旂を討ち、永饒冶県令空桐機を宛に派遣して孟観を捕らえて処断した。
朝廷の第一人者へ
6月、司馬冏は軍を率いて洛陽に入り、上奏文をしたためた。その兵は数十万にも及び、軍旗や武具は甚だ盛んであったので、洛陽の人々は震撼した。恵帝に拝謁すると、功績により大司馬に任じられ、九錫を下賜された。また、器物の制度は宣帝・景帝・文帝・武帝(司馬懿・司馬師・司馬昭・司馬炎)が魏を輔政した故事にならい、同等の特権が与えられた。こうして司馬冏は輔政の任につくと、父がかつて住んでいた宮殿に住み、その下には掾属40人が置かれた。司馬穎・司馬顒らにもそれぞれ40人の官属が置かれたが、その多くが武官だったので、人々は兵難がまだ終わっていないと噂し合ったという。
陸機は司馬倫の帝位簒奪に加担したので司馬冏は処刑しようとしたが、司馬穎が助命を嘆願したので免罪とした。また、散騎侍郎劉輿と冠軍将軍劉琨は司馬倫の側近であったが、司馬冏は彼らの才能を認めていたので罪を問わず、劉輿を中書郎に、劉琨を尚書左丞に任じた。また、元司徒の王戎を尚書令に、劉暾を御史中丞に、王衍を河南尹に、劉殷を軍諮祭酒に、洛陽県令曹攄を記室督に、尚書郎江統・陽平郡太守苟晞を参軍事に、張翰を東曹掾に、孫恵を戸曹掾に、元廷尉正顧栄・王豹を主簿に、董艾を典枢機に任じた。さらに司馬冏に従って功績を挙げた葛旟・路秀・衛毅・劉真・韓泰はみな県公に封じられ、彼ら5人は司馬冏の腹心となって五公[1]と呼ばれた。また、側近の車騎将軍何勗は中領軍となった。
新野王司馬歆は司馬冏へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟であり、さらに大功を立てております。洛陽に留まらせて共に輔政するか、それができないなら兵権を奪うべきです」と進言した。司馬穎は自身が洛陽に留まれば司馬冏との間に軋轢を生む事を分かっていたので、母の病を理由に藩国に帰ることを願い出て、また司馬冏の功徳を称えて大任を委ねるよう進言した。司馬穎が鄴へ出立すると、司馬冏は驚いてその後を追い、洛陽東北の七里澗で追い付いた。司馬穎は涙を流して別れを告げ、政治の話は一切せずに太妃の病状を説明して去っていった。
司馬冏の兄である東莱王司馬蕤は酒乱で凶暴であり、かねてより司馬冏をしばしば侮辱していた。また、司馬冏へ開府を要求するも認められなかったのを恨み、左衛将軍王輿と共に司馬冏を倒す計画を練った。8月、司馬蕤らの計画は事前に露見し、司馬蕤は庶人に落とされ、王輿は三族と共に誅殺された。司馬蕤は上庸に移されたが、司馬冏は上庸内史陳鍾に命じて司馬蕤を暗殺した。
12月、司馬冏の子である司馬冰は楽安王に、司馬英は済陽王に、司馬超は淮南王に封じられた。
朝政を専断
302年3月、皇太孫司馬尚が亡くなった。恵帝は子の司馬遹と孫の司馬虨・司馬臧・司馬尚を立て続けに亡くしており、直系の後継者がいなかったので、恵帝の弟である司馬穎が後継ぎの有力候補になった。だが、長期に渡る専政を目論んでいた司馬冏は、まだ8歳である清河王司馬覃(恵帝の弟司馬遐の子)を後継ぎとするよう上書した。こうして司馬覃が皇太子となり、司馬冏は太子太師となってその養育に当たった。また、東海王司馬越が司空・領中書監となった。
司馬冏は権力を握ってからは奢侈な生活を送るようになり、邸宅や館舎を大いに建築した。また、北の五穀を売買する市場から税を徴収し、南に諸々の官署を開いた。家屋の建て直しは何度も行われ、その回数は100を超えた。大匠に制作を指揮させると、皇宮に匹敵するほどの豪華さとなった。千秋門の壁を壊して西閤への道を作り、後房には鐘や楽器を懸け、前庭には八佾舞踊を隊列させた。これにより、民衆は大いに失望したという。侍中嵆紹は上書して「易経には『存不忘亡(生存する者、滅亡を忘れず)』という戒めがあります。陛下が金墉に幽閉された時の事を忘れてはならず、大司馬(司馬冏)が穎上で苦しんだ事を忘れてはならず、大将軍(司馬穎)が黄橋で敗れた事を忘れてはなりません」と述べ、また手紙を送って「唐(堯)・虞(舜)や夏の禹王も粗末な宮殿に住んだといわれております。近頃、大邸宅が建造されておりますが、これがなすべき事と言えましょうか」と諫めた。司馬冏はこの意見に理解を示して自らの誤りを認めたが、結局行動を改めることはなかった。
司馬冏は酒食に溺れる日々を送り、入朝を行わなくなって自らの府に百官を招いて政務を行った。皇帝の批准を仰がずに事案の決済を行い、独断で三台(尚書台・御史台・謁者台)に命を出し、官員の任用や免官も自らの判断で行った。殿中御史桓豹が上表を行ったとき、司馬冏の王府を通さなかった事で罰を受けた。南陽の処士鄭方が上書して「大王には五つの誤りがあります。平穏に安心して危機を考慮せず、宴楽は度が過ぎています。これが一つ目です。宗室の関係が悪化し、骨肉の争いを行っています。これが二つ目です。蛮夷の騒乱(李特)が続いているにも関わらず、大王は功業が成就したと過信して目を向けようともしません。これが三つ目です。兵乱の後、民衆が窮困を救済しようとしません。これが四つ目です。義兵を起こした時には功を挙げた者に賞を与えると約束しましたが、未だに論功行賞がなされておりません。これが五つ目です」と述べ、司馬冏を諫めた。司馬冏は「汝がいなければ過失に気づく事は無かった」と言って反省したが、結局実行することは無かった。主簿王豹は司馬冏に手紙を送り「今、河間王(司馬顒)が関右を、成都王(司馬穎)が旧魏(鄴)を、新野王(司馬歆)が長江・漢水を押さえ、強兵を擁しております。しかしながら、明公は一人京都(洛陽)で大権を握っており、これは危険な状態といえます。王侯をそれぞれの封国に帰らせると共に、周代に周公と召公が天下を分割統治した事に倣い、成都王を北州伯として鄴を治めさせ、明公は自ら南州伯として宛を治めるのです。そうして黄河で天下を南北に分け、その他の諸王は北州伯と南州伯の支持を仰ぎ、協力して天子を輔けるのが最良かと存じます」と進言すると、司馬冏は王豹の意見に賛成したが、これを知った司馬乂が怒って司馬冏へ「小子が骨肉を離間させようとしている。処刑するべきだ」と述べたので、司馬冏は王豹を逮捕して不忠不義の罪で鞭殺してしまった。王豹は死ぬ前に「我が死んだら首を大司馬府の門に掲げるように。斉王が討たれるのを見届けよう」と言い放った。
司馬冏の驕恣は、日に日にひどくなり、志を改める事は無かった。かつての戸曹掾孫恵も上書して「大きな名声は長く維持する事は出来ず、大きな権力は長期間握る事は出来ません。大王は既に功を成しており、身を退く事を考えるべきです。皇族を推挙し、長沙・成都二王(司馬乂と司馬穎)に大任を任せるべきです」と諫めたが、司馬冏は同意しなかったので孫恵は病を理由に辞職した。司馬冏は曹攄へ「大権を手放して封国に帰るよう勧める者がいるが、汝はどう思うか」と聞くと、曹攄は「物事は頂点に達すると危機を招くといいます。大王が高位にあって危険を考慮し、職を去ることが出来るなら最善の選択といえるでしょう」と答えたが、司馬冏は賛同しなかった。張翰・顧栄らは禍を恐れて司馬冏から離れていった。潁川の処士庾袞も「晋室は衰え、禍が訪れるだろう」と嘆き、妻子を連れて林慮山に隠遁した。
敗亡
司馬冏は司馬顒がかつて司馬倫に味方していた事を不満に思い、これを忌み嫌っていた。司馬顒の長史李含は洛陽に入っていたが、この事を知ると大いに恐れた。そのため、長安へ逃げ戻ると、密詔を受けたと偽って司馬顒へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟で、しかも大功があるのに朝廷に留まらず、封国に帰って民心を得ています。斉王(司馬冏)は陛下と親しい成都王を差し置いて専横し、朝廷に憎まれています。もし今、長沙王(司馬乂)に斉王を討つ様命じれば、力の弱い長沙王は必ず殺されるでしょう。長沙王を滅ぼした罪を理由に斉王を攻めて、成都王を迎え入れ、社稷を安定させれば大勲功でしょう」と勧めると、司馬顒はこれに従った。司馬顒は司馬冏の罪状を上書して「十万の兵を集めて成都王穎・新野王歆・范陽王虓(司馬虓)と洛陽で合流する。長沙王乂に命じて斉王冏を邸宅に送り帰らせ、成都王穎に輔政を請う」と宣言し、李含を都督に任じ、10万と号する兵を与え、張方らと共に洛陽に向かわせた。司馬穎もまた慮志の反対を押し切って司馬顒の挙兵に呼応し、司馬歆と司馬虓もこれに呼応した。李含が陰盤に進軍し、張方も新安に入った。
12月、司馬顒の上書が朝廷に届くと、司馬冏は驚いて百官を集め「かつて、孫秀が作乱して帝王に簒奪を迫った時、社稷は傾覆し、困難を御する人は誰もいなかった。我は義兵を糾合して元凶を掃除し、臣下としての節操を取り戻させ、神明を昭らかにした。今、河間・長沙の二王(司馬乂と司馬穎)は(司馬顒の)讒言を信じ込み、大難を造ってしまった。忠臣・謀士を頼みとし、この不協を和さねばならぬ」と述べた。尚書令王戎と司空司馬越は「公の勲業は多大ですが、功績に対して賞で報いなかったので不満を招いてしまいあした。二王(司馬顒と司馬穎)の勢いを抑えるのは難しく、大権を譲渡して王爵のまま私邸に帰るべきです」と進言すると、従事中郎葛旟は怒って「趙庶人司馬倫は孫秀に惑わされ、天日を改めてしまった。当時、天下の人はこそこそと話し合うだけで、誰も先陣を切って反対する者はいなかった。明公は箭矢に危険を晒すのを承知で自ら甲冑を身に纏い、勇敢に突撃したので今の地位があるのだ。論功行賞が公平で無かったのは、三台(主に尚書台)が王の事務に関与せずに反論意見ばかりを取り入れたからであり、これが王府の責任であろうか。讒言によって乱を起こした者は共に誅討すべきだ。なぜ偽の詔書のために身を退かなければならないのだ。しかも、漢・魏以来、王侯が免職して家に帰った時、妻や子と生涯を全う出来た事があったであろうか。このような発言をする者は斬るべきだ」と述べると、百官は色を失った。
洛陽にいた長沙王司馬乂は司馬冏討伐の兵を挙げると、百人余を率いて宮中に入り、諸門を閉じて恵帝を支配下に置き、その後大司馬府を攻撃した。司馬冏は董艾を派遣して司馬乂を攻撃させ、董艾は宮殿西に陣を構えた。司馬乂は宋洪らを派遣して、諸々の観閣や千秋門・神武門を焼き討ちさせた。司馬冏は黄門令王湖に騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を持ってこさせて「長沙王(司馬乂)が偽の詔を発した」と宣伝させると、司馬乂も「大司馬(司馬冏)が謀反した。これを助ける者は、五族を殺す」と宣言した。夕方、城内では雨のように矢が飛び交い、炎の勢いは天まで届かん程となった。恵帝は上東門に移ったが、御前に矢が集ったので、近臣は恵帝を矢から守った。さらに、百官は消火に励んだが、その過程で次々に命を落とした。三日間の戦いの末、司馬冏は劣勢となり、大司馬長史趙淵は何勗を殺して司馬冏を捕えると、司馬乂に投降した。司馬乂は恵帝の前に司馬冏を差し出した。恵帝はこれを痛ましく思って助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出した。司馬冏は恵帝の方を振り向いて助けを期待したが、閶闔門外で処刑された。司馬冏の首は六軍に示され、司馬冏に協力した者達は三族を誅滅され、死者は二千人を超えた。司馬冏の子である司馬超・司馬冰・司馬英は金墉城に幽閉され、司馬冏の弟である北海王司馬寔は王位を廃された。司馬冏の死体は西明亭で暴され、3日が経過しても収容する人はいなかったが、司馬冏の掾属であった荀闓らは、上表して葬儀の執り行いを乞い、許された。洛陽へ進撃していた李含らは司馬冏が死んだと聞き、長安に帰還した。
死後
304年、詔が下り、司馬冏の罪に対して受けた刑が重く、過去の勲功を埋もれさせてしまうのは忍びないとして、3人の子である司馬超・司馬冰・司馬英は許されて宮殿に戻り、司馬超は県王に封じられて司馬冏の祭祀を継ぎ、員外散騎常侍を任じられた。
306年、詔が下り、司馬冏は斉王の封号を回復され、子の司馬超が爵位を継いだ。永嘉年間、懐帝は詔を下し、幾度も司馬冏の元勲を論述し、生前の官位である大司馬を追贈し、さらに侍中・仮節を加え、武閔と諡した。永嘉の乱が起こると、司馬超の兄弟はみな漢(後の前趙)の軍勢に殺され、司馬冏の後継は絶えた。
逸話
- 司馬冏が執政していた時、白頭公(ムクドリ)が大司馬府に入って大声で鳴き「兵が起こり、それは甲子旬より前である」と言った。司馬冏はこれを捕らえて殺した。
- 司馬冏が強盛だった頃、1人の妊婦が大司馬府を訪れ、子を産ませてもらう様求めた。官吏がこれを詰問すると、婦人は「私は子を産んで臍帯を切ったら、すぐに去ります」と述べた。識者はこれを聞いて不吉だと言った。当時、童謡で「女人は麻布の内衣を身に着けて腹を出している。喪服を揃える為である」というのがあった。直後に司馬冏は誅殺された。
参考文献
脚注
- ^ 葛旟は牟平公、路秀は小黄公、衛毅は陰平公、劉真は安郷公、韓泰は封丘公