「孫秀 (西晋)」の版間の差分
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司馬倫と孫秀は当時権勢を誇っていた[[賈謐]]を始めとした賈氏一派に取り入ると、司馬倫に[[録尚書事]]や[[尚書令]]の地位を与えるよう求めたが、張華と[[尚書]][[裴頠]]は共にこれに反対したので、過去の一件もあって孫秀は張華を強く憎んだ。張華もまた孫秀らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。 |
司馬倫と孫秀は当時権勢を誇っていた[[賈謐]]を始めとした賈氏一派に取り入ると、司馬倫に[[録尚書事]]や[[尚書令]]の地位を与えるよう求めたが、張華と[[尚書]][[裴頠]]は共にこれに反対したので、過去の一件もあって孫秀は張華を強く憎んだ。張華もまた孫秀らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。 |
2020年7月31日 (金) 10:24時点における版
孫 秀(そん しゅう、? - 301年)は、西晋の政治家。字は俊忠。琅邪郡の出身。
生涯
司馬倫の寵臣
彼の家は代々五斗米道を奉じており、孫秀もまたその道徒であった。
若くして琅邪郡の小吏となった。彼は狡猾・貪淫であり、自らの自慢ばかりしていたので、黄門郎潘岳はその人となりを憎み、幾度も鞭打って辱めたという。
琅邪王司馬倫が赴任すると、孫秀は言葉巧みに媚び諂ってその信頼を得るようになった。そして、文書を代行して作成するようになると、司馬倫はその文才を称えた(司馬倫は無学で皇族にあるにも関わらず文書の読み書きさえ出来ない有様という人物だった)。
277年8月、司馬倫が趙王に改封されるに及んで、孫秀もまた戸籍を趙に移し、侍郎に任じられた。その後も司馬倫の下で昇進を重ね、その謀略を預かった。
290年9月、司馬倫が関中の守備に就くと、孫秀もまたこれに付き従った。294年、司馬倫は関中を混乱させて氐・羌の反乱を招いてしまった。296年5月、朝廷は司馬倫を更迭し、代わりに梁王司馬肜(司馬倫の兄)に関中を任せた。雍州刺史解系は弟の解結と共に、司馬倫の謀略を担当する孫秀を処刑し、挙兵した氐・羌に謝罪するべきだと主張した。朝廷の第一人者であった司空張華はこの事を司馬肜に伝えると、司馬肜もまた同意した。孫秀の友人辛冉は司馬肜へ「氐・羌は勝手に反したまでであり、これは孫秀の罪ではありません」と述べ、司馬肜に許しを請うと、孫秀の死罪は免じられた。その後、司馬倫が洛陽に召喚されると、孫秀もこれに従った。
司馬倫と孫秀は当時権勢を誇っていた賈謐を始めとした賈氏一派に取り入ると、司馬倫に録尚書事や尚書令の地位を与えるよう求めたが、張華と尚書裴頠は共にこれに反対したので、過去の一件もあって孫秀は張華を強く憎んだ。張華もまた孫秀らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。
297年、孫秀は以前からの恨みから解系を讒言し、解系は陥れられて免官となった。
299年12月、賈南風は皇太子司馬遹を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とし、300年1月には許昌宮に幽閉した。
3月、右衛督司馬雅・常従督許超はかつて東宮に仕えていたので、皇太子廃位に大いに憤った。彼らは殿中中郎士猗らと共に賈南風を廃して皇太子の復位を目論み、強大な兵権を握る司馬倫に協力を仰ごうと思い、孫秀へ「中宮(皇后)は凶悪無道であり、賈謐らと共に太子を廃しました。今、陛下には後継がおらず国は危険な状態にあり、大臣が事を起こそうとしています。趙王(司馬倫)は中宮に仕え、賈謐・郭彰と親しくしているので、太子の廃位は趙王も加担していると思われています。このままでは必ず禍が起きるでしょう」と述べ、協力を持ち掛けた。孫秀はこれに同意して司馬倫に伝えると、司馬倫もまた賛同し、通事令史張林と省事張衡らに命じて政変の際には内応するよう準備させた。たが、孫秀は裏では密かに司馬倫へ「太子は聡明で剛猛な人物です。もし東宮に帰還できでも、誰かの制御を受けたりはしないでしょう。明公(司馬倫)は元々賈后(賈南風)と結託していたのは誰もが知るところであり、今回太子のために大功を立てたとしても、太子は明公が周囲の圧力によりやむなく協力したぐらいにしか思わず、明公に対する怨みは無くなっても感謝することなどないでしょう。むしろ、今後もし過失があったらそれを口実に誅殺される恐れすらあります。ここはわざと決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つべきです。その後、太子の仇をとるという大義名分で賈后を廃せば、禍を除いた上に更に大きな志を得ることも可能でしょう」と勧めると、司馬倫は同意した。孫秀は司馬雅らが皇后を廃して太子を迎え入れようとしていると言う噂を流すと、賈南風は各所に配置していた宮婢からこの情報を入手し、驚愕した。同時に、孫秀は賈謐らに「急ぎ太子を除いて衆望を絶つべきかと」を進言すると、 賈南風は遂に謀殺を決め、黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。
孫秀は夜に司馬雅を張華の下に派遣して「今や社稷は危険な状態であります。趙王はあなたと共に朝廷を正し、覇者の事業を為そうと考えておられます」と告げた。だが、張華は孫秀らが必ずや簒奪をなすであろうと確信しており、この申し出を拒絶した。
4月3日、孫秀らは右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜・斉王司馬冏と共に政変を決行し、賈氏一派を尽く捕らえて賈南風を落として建始殿に幽閉した。司馬倫は帝位簒奪の野心を抱いていたので、孫秀と謀議して朝廷で声望がある者やかねてより怨みがある者を除くことにした。これにより、張華・裴頠・解系・解結らが逮捕され、三族皆殺しとなった。側近の劉振・董猛・孫慮・程拠らも処刑され、張華・裴頠の取り巻きとみなされた者多数が罷免された。
権力を掌握
司馬倫は自ら符節を持って都督中外諸軍事・相国・侍中となり、権力を手中に収めると、孫秀もまた大郡に封じられて中書令に任じられ、兵権を握った。文武百官で封侯された者は数千人にも及び、みな司馬倫の指示を仰ぐようになったが、司馬倫は凡庸な人物であったので、実際には孫秀が政治を運用して百官を動かした。その為、その威権は朝廷において顕かとなり、衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになった。
衛尉石崇の甥である欧陽建は司馬倫と仲が悪く、石崇もまた司馬倫と孫秀を嫌っていた。ある日、孫秀は石崇の愛妾緑珠が美女だと知って譲るよう要求したが、石崇は拒否したので孫秀はこれを深く怨んだ。
中護軍・淮南王司馬允(恵帝の弟)と斉王司馬冏は司馬倫が分を弁えずに好き勝手振る舞っているのに不平を抱いていた。また、司馬允は司馬倫と孫秀が異謀を抱いていると知り、排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。孫秀らはそれを察知して、これを大いに警戒した。
8月、孫秀らは謀議し、司馬允を太尉に昇格させて中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。孫秀は御史劉機を派遣し、詔と偽って司馬允の印綬を奪い取ってその配下を逮捕させると、大逆不敬の罪で司馬允を弾劾した。司馬允は詔が孫秀の筆跡だと知ると激怒して劉機を捕えようとしたが、劉機は隙を見て逃走したのでその部下2人を処刑した。司馬允は司馬倫と孫秀の討伐を掲げ、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて相国府を攻撃し、司馬倫は追い詰められたが、司馬督護伏胤が寝返って司馬允を斬り殺したので、乱は鎮圧された・子の秦王司馬郁・漢王司馬迪を始め、数千人が連座して処刑された。また、かつて辱めを受けていた潘岳と、折り合いの悪かった石崇・欧陽建も謀反に加担したとでっち上げられて一族皆殺しとなり、石崇の財産は没収された。石崇が嘆いて「我に罪などない。奴輩(孫秀)の目的は我が家の財産だ」と言ったが、延尉は「財が禍を成すと知っているのに、なぜ早く手放さなかったのだ。これは自業自得といえよう」と言い放った。
孫秀は司馬冏の存在も警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。
孫秀が司馬倫に九錫を下賜するよう恵帝に上奏すると、百官で敢えて異議を唱える者はいなかった。しかし、吏部尚書劉頌は「かつて、漢は魏に九錫を下賜し、魏もまた晋に九錫を下賜しましたが、それはあくまで特例であり、これを平時の制度としてはなりません。周勃・霍光は功績多大な身でありましたが、九錫は与えられておりません」と反対すると、司馬倫の側近張林は怒り「劉頌は張華と結託していた。処刑すべきだ!」と述べたが、孫秀は「張華と裴頠を処刑した事で、既に民衆の信望は損なわれている。そのうえで劉頌まで殺すべきではない」と反対すると張林は同意し、劉頌は光禄大夫に任じられた。司馬倫に九錫が下賜されると、孫秀は侍中・輔国将軍・相国司馬に任じられ、右率である事はこれまで通りであった。
ある人は孫秀へ「散騎常侍楊準・黄門侍郎劉逵は梁王司馬肜を頼みとし、司馬倫を誅殺しようとしております」と告げた。この時、天文が異常を見せていた事もあり、孫秀は司馬肜を丞相に任じて司徒府に住まわせ、楊準・劉逵を地方へ左遷した。
孫秀の子孫会は当時20歳で射声校尉の任にあったが、恵帝の娘河東公主を娶った。公主は母の喪から1年たっていなかったが、構わず聘礼を行った。孫会の身体は矮小で容貌は醜く、出で立ちは下等な召使いのようであったという。かつて、孫会は富家の子として城西で馬を売っていたが、その彼が公主を娶ったと聞き、百姓はみな驚愕したという。
11月、孫秀は恵帝に新しい皇后を立てようと思った。羊献容の外祖父である孫旂は孫秀と同族であり、彼の子の多くが孫秀と親交が有ったので、皇后に立てられた。
301年1月、司馬倫の意を受け、孫秀は帝位簒奪の準備を進め、腹心に諸軍を統率させて各地に配した。また、牙門趙奉に命じて宣帝(司馬懿)の神語であると称して「東宮(相国府)の司馬倫は速やかに西宮(禁中)に入るように」と宣言させた。また、宣帝は果たされると、孫秀は侍中・中書監・驃騎将軍に任じられ、儀同三司の特権を与えられた。さらに司馬倫は孫秀を厚遇するようになり、かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。政事は孫秀が専断するようになり、事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。司馬倫が詔を下した時は孫秀がいつも改変し、取捨を行って自ら青紙に書き写して詔書とした。朝に出された勅命が夜には変えられた事が3・4度に及び、百官の異動も流水のように頻繁に行われた。
孫秀は国家の大権を掌握すると、欲しいままに奸謀をなし、多くの忠臣・良将を殺して私欲を満たしたという。司隷従事游顥と殷渾は反目し合っており、殷渾は游顥の奴僕である晋興を引き込み、彼に游顥が反乱を企んでいると孫秀へ告げさせた。孫秀は詳細を確認せずに游顥と襄陽中正李邁を捕らえて殺害し、晋興を厚遇して部曲督に取り立てた。こうした事が幾度かあり、洛陽の君子は生きているだけで喜びを感じるようになった。
孫秀は同じく側近の張林と以前より関係が悪く、表面上はお互い尊重し合っていたが、裏では妬み合っていた。また、張林は自らに開府の特権が与えられなかったことを恨み、太子司馬荂に手紙を書いて「孫秀は専権して人心を失っており、功臣も全て小人で朝廷を乱しております。まとめて誅殺すべきです。」と勧めた。だが、司馬荂はこの手紙を司馬倫に見せると、司馬倫は孫秀に渡した。孫秀は張林を逮捕するよう司馬倫に進言すると、司馬倫は同意した。司馬倫は華林園に宗室を集めて会合を開くと、張林を招集させた。孫秀は王輿に乗って入殿すると、張林を捕らえて三族と共に誅滅した。
最期
当時、斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒がそれぞれ強兵を擁して地方を治めており、孫秀は司馬冏らが謀反を企んでいる事を知っていたので、これを深く憂慮して三王の補佐を名目に司馬倫の臣下を派遣し、その将軍や郡守とした。同時に、司馬冏を鎮東大将軍に、司馬穎を征北大将軍に任じ、さらに将軍府を開く事を認め、儀同三司の特権を与えて懐柔を謀った。
だが、司馬冏は監視役として派遣された管襲を殺害すると、孫秀討伐を掲げて挙兵し、成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将新野公司馬歆に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎・司馬乂・司馬歆・司馬顒はみなこれに呼応した。
三王(司馬冏・司馬穎・司馬顒)が挙兵したと聞いて孫秀は驚愕し、司馬冏の上書を偽造して「正体不明の賊に攻撃を受けており、我が軍は脆弱であり守ること敵わず、朝廷から援軍を派遣していただきますよう。」と書き換え、司馬倫は許昌にいる司馬冏を救援するという名目で兵を動員した。上軍将軍孫輔・折衝将軍李厳に七千人を与えて延寿関から進ませ、征虜将軍張泓・左軍将軍蔡璜・前軍将軍閭和に九千人を与えて崿阪関から進ませ、鎮軍将軍司馬雅・揚威将軍莫原に八千人を与えて成皋関から進ませ、三軍を南下させて司馬冏の北上を防いだ。東平王司馬楙を使持節・衛将軍・都督諸軍に任じて三軍を統率させた。
孫秀は毎日家中に各種祭祀器具を飾り付け、呪いによって勝利を得ようとして、巫術の文章を制作し、巫覡に戦の日を選ばせた。孫秀は巫祝を信じており、怪異の類を信用していたという。
孫秀は司馬馥・司馬虔にも兵を与えて諸軍を援護させようとしたが、彼らは恐れて応じなかった。司馬虔はかねてより劉輿と仲が良かったので、孫秀は劉輿に説得させて応じさせた。孫秀の子孫会が将軍士猗・許超と宿衛兵(近衛軍)三万を率いて司馬穎に対抗し、京兆王司馬馥と広平王司馬虔に八千人を与えて孫会軍の後援とした。
皇帝軍は当初は優勢であったが、味方同士の不和や油断により、次第に劣勢となっていった。孫秀は三方の軍が危機に陥っている事を知っていたが、「既に司馬冏軍を破り、司馬冏を生け捕りにした」と嘘の発表を行い、衆人を惑わして朝廷の百官に祝賀させた。
司馬冏らの挙兵以後、百官や諸将は司馬倫と孫秀を殺害して天下に謝罪しようと思い、隙を機会を窺うようになった。孫秀はこれを恐れて中書省から外に出なくなり、後に河北軍が全て敗れたという報告が届くと、深く憂慮してなす術が無かった。義陽王司馬威は孫秀へ、尚書省と八座(六曹尚書と尚書令、尚書僕射)と今後の対応について論議するよう勧めると、孫秀はこれに従った。また、四品官以下の子弟で在15歳以上の者を洛陽城内にかき集めると司隸の所に集結させると、皇帝軍の出征に従軍させた。だが、内外の各軍はみな孫秀を殺害しようと考えており、司馬威は禍を恐れて崇礼門を出て自宅に帰った。
孫会・許超・士猗等が敗北を喫して洛陽に逃げ戻ると、孫秀と対策を練った。ある者は残兵を集めて再戦するよう主張し、ある者は宮殿を焼き払って従わない者を殺し、司馬倫を連れて南に逃げて荊州を守る孫旂や宛を守る孟観を頼るよう主張し、ある者は船で東に逃げて海に入るよう主張したが、結局決断出来なかった。
7日、左衛将軍王輿と尚書広陵公司馬漼が営兵700人余りを率いて南掖門から宮中に入ると、勅命を下して諸将へ宮門を押さえるよう命じ、三部司馬が内から応じた。政変を知った孫秀は中書省の南門を閉めたので、王輿は兵士に壁を乗り越えさせ、さらに家屋を焼き払った。孫秀は恐れて許超・士猗と共に逃亡を図るも、左衛将軍趙泉に斬り捨てられ、見せしめとされた。司馬倫の側近は尽く誅殺され、司馬倫もまた金墉城に幽閉された後に殺害された。司馬倫は最期に「孫秀が我を誤らせた!孫秀が我を誤らせた!」と慟哭したという。