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後に[[東夷]][[校尉]]・仮節となり、赴任前に司馬炎に謁見した。しかし司馬炎は、彼に面会するや否や嫌悪感を覚え、別件に託け免職にした(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。 |
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[[291年]]、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の時代に賈皇后([[賈南風]])が[[クーデター]]を起こし、実権を握っていた[[楊駿]]一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公の[[司馬繇]]は諸葛誕の外孫に当り、母も諸葛誕の娘<ref>諸葛誕の反乱後も、他家に嫁いでいたことを理由に連座を免れていた。</ref>であった。司馬繇は、文鴦が母の一族(つまり諸葛誕の一族)に復讐することを恐れ、文鴦を殺さんと謀り彼が叛逆したと誣告した。それは全くの[[冤罪]]だったが、結果的に文鴦の三族は皆殺しとなり、文鴦も殺された。(『晋書』司馬繇伝)。 |
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==三国志演義の文鴦== |
==三国志演義の文鴦== |
2020年7月31日 (金) 10:24時点における版
文 鴦(ぶん おう、238年 - 291年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。魏・呉・晋に仕えた。字は次騫[1]。豫州譙国譙県の出身。祖父は文稷。父は文欽。弟は文虎。「鴦」は幼名で、本名は文俶(「淑」という記載もある)という。三国志と晋書に記述が散見される。
生涯
毌丘倹の乱と諸葛誕の乱
幼い頃から、人並み外れた勇気と力を持っていた。
255年、父と毌丘倹が司馬師の専横に反発し寿春で乱を起こした。文鴦は父に従って司馬師の軍勢と戦った。
司馬師は汝陽に駐屯して、鄧艾を楽嘉に派遣した。鄧艾は魏軍が弱いと見せかけて文欽を誘い出し、司馬師も大軍を隠密に楽嘉へ移動させた。文欽が罠にかけられたことを知り引き返そうとしたが、文鴦は父親に「まだ勝敗は決していません。城に登って、鼓を打ち、大声をあげれば、魏軍を撃ち破れます。」と言った。文鴦は敵を攻め三度騒いだが、父が応じなかったため、退いて父とともに戦線を東に下げた[2]。
司馬師は文欽が逃げたことを知ると、精兵でもって追撃を開始させた。諸将達は「文欽は古強者だし、子の鴦は若く気鋭です。軍を退いて城に篭っても、未だ損害を被っていないなら、彼らが敗走することはありません。」と言った。しかし司馬師は「一度鼓すれば士気が生まれ、二度目は衰え、三度目で尽きる。文鴦が三度も鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いは既に屈している。敗走しないなら何を待っているのだ」と追撃を緩めなかった。文欽が更に逃げようとした時、文鴦は「司馬師に先んずることができず、我が軍の勢いを折ってしまった。このまま退き下がることはできません」と言い、自らを含めた十数騎で魏の陣への急襲を成功させた。この急襲の間に文欽は軍を退却させ、文鴦を連れて共に呉へ亡命した(毌丘倹・文欽の乱)。
その頃、司馬師は悪性の目の瘤を手術していた。術後、あまり経過しない内に帰陣しており、そこへ文鴦の奇襲を受け無理をしたため、片方の目玉が飛び出してしまったという。閏月、病状が悪化したため司馬昭を呼び出し軍を委ね、許昌にて死去した。
257年に諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こすと、 呉の将軍として父と共に諸葛誕の救援に向かった。戦局が悪化すると、文欽と諸葛誕が軍の指揮について対立し始め、文欽は諸葛誕に殺された。この事を聞いた文鴦は、兵を指揮して諸葛誕の元に駆けつけようとしたが、部下達が誰もついて来なかったので文虎と共に司馬昭に降伏した(諸葛誕の乱)。軍吏たちが文鴦を処刑すべきだと進言したが、司馬昭は今ここで文鴦を処刑してしまうと誰も降伏してこなくなると懸念し、彼らを赦した。文鴦は数百の兵を引き連れ、城内の兵に対し「文欽の子ですら許されたのだから、他の者は何の心配があろうか」と降伏を呼びかけた。さらに文鴦が将軍に任じられ、関内侯の爵位も授かったため、城内の兵は動揺した(『三国志』諸葛誕伝)。寿春城が陥落すると、司馬昭は文欽の亡骸を収容することを許した。文鴦は、支給された車牛で故郷まで亡骸を運び、埋葬した。
晋の勇将
265年に晋が成立すると、司馬炎(武帝)の時代に平虜護軍となった。
277年、かねてより涼州一帯で反逆を繰り返していた鮮卑の禿髪樹機能らが、屯田兵を誘拐しようとした。文鴦は、司馬駿の統率の下、涼・秦・雍州の諸軍を監督し禿髪樹機能の討伐に向かった。文鴦は一斉に軍を進駐させて威圧をかけ、その勢いのまま涼州の異民族を撃破した。禿髪樹機能は包囲攻撃を受け重傷を負ったため、兵を撤退させた。その後、配下の二十部隊を連れて軍門に降った。この戦いで文鴦は天下に名声を馳せたという。
後に東夷校尉・仮節となり、赴任前に司馬炎に謁見した。しかし司馬炎は、彼に面会するや否や嫌悪感を覚え、別件に託け免職にした(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。
291年、恵帝の時代に賈皇后(賈南風)がクーデターを起こし、実権を握っていた楊駿一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公の司馬繇は諸葛誕の外孫に当り、母も諸葛誕の娘[3]であった。司馬繇は、文鴦が母の一族(つまり諸葛誕の一族)に復讐することを恐れ、文鴦を殺さんと謀り彼が叛逆したと誣告した。それは全くの冤罪だったが、結果的に文鴦の三族は皆殺しとなり、文鴦も殺された。(『晋書』司馬繇伝)。
三国志演義の文鴦
小説『三国志演義』にも登場し、毌丘倹の反乱の際には反乱軍の将として、趙雲[4]に匹敵する勇将として描かれている。因みに「横山三国志」には登場しない。