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かつて父の丁綝が光武帝の征戦に従うと、丁鴻は弟の丁盛とともに留守をまもった。丁綝が死去すると、丁鴻は陵陽侯の封爵を嗣ぐべきであったが、上書して爵位を丁盛に譲ろうとした。許可が得られなかったため、葬儀が終わると逃亡した。桓栄のもとで丁鴻と同門であった鮑駿が「兄弟の私恩のために王命で認められた継承を絶つのは、智というべきだろうか」と説得したため、丁鴻は嘆息して家に戻り、封国へと赴いた。門戸を開いて門人を集め、[[経学]]を教授するようになった。 |
かつて父の丁綝が光武帝の征戦に従うと、丁鴻は弟の丁盛とともに留守をまもった。丁綝が死去すると、丁鴻は陵陽侯の封爵を嗣ぐべきであったが、上書して爵位を丁盛に譲ろうとした。許可が得られなかったため、葬儀が終わると逃亡した。桓栄のもとで丁鴻と同門であった鮑駿が「兄弟の私恩のために王命で認められた継承を絶つのは、智というべきだろうか」と説得したため、丁鴻は嘆息して家に戻り、封国へと赴いた。門戸を開いて門人を集め、[[経学]]を教授するようになった。 |
2020年8月1日 (土) 09:14時点における版
丁鴻(てい こう、生年不詳 - 94年)は、後漢の儒学者・政治家。字は孝公。本貫は潁川郡定陵県。
経歴
丁綝の子として生まれた。13歳のときに桓栄に師事して、欧陽『尚書』の講義を受けた。
かつて父の丁綝が光武帝の征戦に従うと、丁鴻は弟の丁盛とともに留守をまもった。丁綝が死去すると、丁鴻は陵陽侯の封爵を嗣ぐべきであったが、上書して爵位を丁盛に譲ろうとした。許可が得られなかったため、葬儀が終わると逃亡した。桓栄のもとで丁鴻と同門であった鮑駿が「兄弟の私恩のために王命で認められた継承を絶つのは、智というべきだろうか」と説得したため、丁鴻は嘆息して家に戻り、封国へと赴いた。門戸を開いて門人を集め、経学を教授するようになった。
67年(永平10年)、丁鴻は明帝により洛陽の宮中に召し出され、『尚書』の文侯之命篇を解説した。博士と同礼で待遇された。しばらくして侍中に任じられた。70年(永平13年)、射声校尉を兼ねた。79年(建初4年)、魯陽郷侯に徙封された。
章帝は丁鴻や広平王劉羨や儒者の楼望・成封・桓郁・賈逵らに命じて、北宮の白虎観で五経の異同を議論させた。その議論における丁鴻の批判は最も明晰で、儒者たちの賞賛を受け、章帝もしばしば感嘆した。当時の人には「殿中無双丁孝公」と呼ばれた。校書に抜擢され、成封に代わって少府となった。門下はますます増えて、遠方からやってくる者が数千人におよび、門人の劉愷・巴茂・朱倀らは後に公卿に上った。85年(元和2年)、章帝が東巡すると、丁鴻は少府としてつき従った[1]。86年(元和3年)、馬亭郷侯に徙封された。
88年(章和2年)、和帝が即位すると、丁鴻は太常に転じた。92年(永元4年)閏月丁丑[2]、司徒となった。このころ竇太后が臨朝称制し、竇憲兄弟が権勢をふるっていた。丁鴻は日食[3]を機会として竇憲を弾劾し、政治の粛正を求める上奏をおこなった。
十数日後、丁鴻は太尉を代行し、衛尉を兼ね、南宮と北宮に駐屯するよう和帝に命じられた。丁鴻は竇憲の大将軍の印綬を没収させた。竇憲とその弟たちはみな自殺した。
ときに人口の多い大郡でも少ない小郡でも1年に2人の孝廉が察挙されており、不公平であったことから、丁鴻は人口20万人あたり1年1人の割り当てで郡に察挙させるよう上奏すると、和帝に聞き入れられた。
94年(永元6年)1月己卯[2]、丁鴻は死去した。子の丁湛が後を嗣いだ。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻37 列伝第27