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元々は[[永嘉の乱]]を避け、遼東に割拠する東夷校尉[[崔ヒ|崔毖]]に帰順していた。[[319年]]12月、崔毖が[[慕容部]]の首領[[慕容廆]]に敗れると捕らえられ、[[崔燾]](崔毖の甥)・[[高瞻]]・[[韓恒]]らと共に棘城へ送られた。慕容廆は石琮を客人として厚遇し、やがて石琮は柳城都尉に任じられた。 |
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[[334年]][[2月]]、[[段部]]の首領[[段遼]]は弟の[[段蘭]]と[[慕容翰]]を柳城へ侵攻させた。石琮は城大である[[慕輿泥]]と共に決死の防戦を繰り広げ、段蘭らを退却させた。10日余りした後、段蘭と慕容翰が再び侵攻して柳城を包囲した。段蘭は[[雲梯]]を造って地下道を掘り、20日に渡って四方から昼夜問わず攻撃を掛けたが、石琮はひたすら城を堅守した。さらに、機を見て石琮は将士を率いて出撃し、敵軍を奇襲した。これにより首級千五百を挙げ、段蘭を退却させた。 |
2020年8月1日 (土) 09:28時点における版
石 琮(せき そう、? - 352年)は、五胡十六国時代前燕の人物。祖父は西晋の昌安県侯石鑒。
生涯
元々は永嘉の乱を避け、遼東に割拠する東夷校尉崔毖に帰順していた。319年12月、崔毖が慕容部の首領慕容廆に敗れると捕らえられ、崔燾(崔毖の甥)・高瞻・韓恒らと共に棘城へ送られた。慕容廆は石琮を客人として厚遇し、やがて石琮は柳城都尉に任じられた。
334年2月、段部の首領段遼は弟の段蘭と慕容翰を柳城へ侵攻させた。石琮は城大である慕輿泥と共に決死の防戦を繰り広げ、段蘭らを退却させた。10日余りした後、段蘭と慕容翰が再び侵攻して柳城を包囲した。段蘭は雲梯を造って地下道を掘り、20日に渡って四方から昼夜問わず攻撃を掛けたが、石琮はひたすら城を堅守した。さらに、機を見て石琮は将士を率いて出撃し、敵軍を奇襲した。これにより首級千五百を挙げ、段蘭を退却させた。
337年9月、慕容皝が燕王を称すると、石琮は列卿将帥となり、常伯に任じられた。