「文彬」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Chicchiki cheese (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 「楨」→「テイ」への改名に伴うリンク修正依頼2 (丁宝楨) - log タグ: 手動差し戻し |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''文彬'''(ぶんひん、ウェンビン、{{lang-mnc|ᠸᡝᠨ ᠪᡞᠨ}} 転写:Wenbin、[[1825年]] - [[1880年]])は、[[清]]朝の官僚。字は'''質夫'''。 |
'''文彬'''(ぶんひん、ウェンビン、{{lang-mnc|ᠸᡝᠨ ᠪᡞᠨ}} 転写:Wenbin、[[1825年]] - [[1880年]])は、[[清]]朝の官僚。字は'''質夫'''。 |
||
内務府[[満州民族|満州]]正白[[旗人]]。ナラ氏(Nara hala、納喇氏)。[[1852年]]に[[進士]]となり、戸部主事となった。[[1860年]]、員外郎として[[咸豊帝]]の[[承徳市|熱河]]行に随行した。[[1861年]]、郎中となり、[[山東省]][[沂水県|沂州]][[知府]]となった。赴任後、[[捻軍]]が府城に迫ったが、軍を率いて首領の[[孫化詳]]を捕らえ、[[道員]]に昇進した。[[1865年]]、[[布政使]]の[[ |
内務府[[満州民族|満州]]正白[[旗人]]。ナラ氏(Nara hala、納喇氏)。[[1852年]]に[[進士]]となり、戸部主事となった。[[1860年]]、員外郎として[[咸豊帝]]の[[承徳市|熱河]]行に随行した。[[1861年]]、郎中となり、[[山東省]][[沂水県|沂州]][[知府]]となった。赴任後、[[捻軍]]が府城に迫ったが、軍を率いて首領の[[孫化詳]]を捕らえ、[[道員]]に昇進した。[[1865年]]、[[布政使]]の[[丁宝楨]]に従って捻軍を破り、[[按察使]]、[[布政使]]と昇進していった。 |
||
[[1872年]]、[[漕運総督]]となった。漕運総督として、[[黄河]]の河道を[[淮河]]に注ぎ込むルートに戻すよう主張した。 |
[[1872年]]、[[漕運総督]]となった。漕運総督として、[[黄河]]の河道を[[淮河]]に注ぎ込むルートに戻すよう主張した。 |
2020年8月1日 (土) 22:54時点における版
文彬(ぶんひん、ウェンビン、満洲語: ᠸᡝᠨ ᠪᡞᠨ 転写:Wenbin、1825年 - 1880年)は、清朝の官僚。字は質夫。
内務府満州正白旗人。ナラ氏(Nara hala、納喇氏)。1852年に進士となり、戸部主事となった。1860年、員外郎として咸豊帝の熱河行に随行した。1861年、郎中となり、山東省沂州知府となった。赴任後、捻軍が府城に迫ったが、軍を率いて首領の孫化詳を捕らえ、道員に昇進した。1865年、布政使の丁宝楨に従って捻軍を破り、按察使、布政使と昇進していった。
1872年、漕運総督となった。漕運総督として、黄河の河道を淮河に注ぎ込むルートに戻すよう主張した。
出典
- 『清史稿』巻459・列伝237
|
|
|
|
|
|