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2020年8月2日 (日) 21:13時点における版
銭能訓 | |
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プロフィール | |
出生: | 1870年(清同治9年) |
死去: |
1924年(民国13年)6月5日 中華民国北京市 |
出身地: | 清浙江省嘉興府嘉善県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 錢能訓 |
簡体字: | 钱能训 |
拼音: | Qián Néngxùn |
ラテン字: | Ch'ien Neng-hsün |
和名表記: | せん のうくん |
発音転記: | チエン ノンシュン |
銭 能訓(せん のうくん)は清末民初の政治家。北京政府において国務総理に就任した。字は幹丞。
事跡
1898年(光緒24年)、戊戌科第二甲第18位進士となる。以後、中央・各地方で職歴を重ね、1903年(光緒29年)、監察御丞に昇進した。1904年(光緒30年)より巡警部尚書兼民政部尚書徐世昌の属僚となる。1907年(光緒33年)に徐が東三省総督になると、銭能訓もこれに従って東三省に赴任した。
1910年(宣統2年)、軍機大臣となった徐の推薦により、銭は陝西布政使となる。さらに護理陝西巡撫(護理とは、下位の者が上位の職務を代行すること)となった。辛亥革命が陝西省でも勃発すると、銭はこれを鎮圧できず、革命派に捕虜とされた。その際に、銭は拳銃自殺を図って果たせず、北京へ逃亡した。
中華民国でも、銭能訓は、徐世昌との関係から袁世凱に重用された。1913年(民国2年)10月、熊希齢内閣の内務部次長に就任する。1914年(民国3年)4月、蒙古・西蔵・青海三省区の約法会議議員に選出された。同年5月、国務卿兼礼制館総裁に就任した徐を補佐する形で、政事堂右丞兼礼制館副総裁に就任した。1915年(民国4年)10月、署理平政院院長兼文官高等懲戒委員会委員長(翌年4月、正式に平政院院長に就任)に任命された。
1917年(民国6年)12月、王士珍内閣で銭能訓は内務総長に任命された。1918年(民国7年)2月、王が辞任すると、3日間だけではあるが代理国務総理をつとめた。その後、3月の段祺瑞内閣でも内務総長に再任される。10月、徐世昌が大総統に任命されると、銭は再び代理国務総理となる。12月、正式に国務総理(翌年1月、内務総長を兼任)に任命された。
しかし銭能訓は、安徽派・直隷派間の対立により、独自の指導力を発揮することは出来なかった。最後は五四運動発生の責任をとらされる形で、就任からわずか半年後の1919年(民国8年)6月に国務総理を罷免された。その後、蘇浙太湖水利工程督弁、外交部顧問を歴任している。
1924年(民国13年)6月5日、北京で病没。享年55。
参考文献
- 張樹勇「銭能訓」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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