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[[中華民国]]成立後の[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、傅嶽棻は[[北京政府]]で国務院銓叙局検事に任命される。[[1919年]](民国8年)6月、署理教育部次長(正式就任は同年12月)となった。あわせて[[銭能訓]]内閣で代理教育総長となる。続く、[[心湛]]臨時内閣、[[キン雲鵬|靳雲鵬]]内閣、[[薩鎮氷]]臨時内閣でも同じ地位にあった。[[1920年]](民国9年)8月、辞任した。


その後は、中国学院教授、河北大学教授兼系主任、[[北京大学]]教授、北京師範大学教授を歴任した。また、雑誌『湖北文徴』の編修にも関わり、詩人として詩文集も遺している。
その後は、中国学院教授、河北大学教授兼系主任、[[北京大学]]教授、北京師範大学教授を歴任した。また、雑誌『湖北文徴』の編修にも関わり、詩人として詩文集も遺している。

2020年8月2日 (日) 21:13時点における版

傅嶽棻
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1951年
出身地: 清の旗 湖北省武昌府江夏県
職業: 政治家・詩人
各種表記
繁体字 傅嶽棻
簡体字 傅嶽棻
拼音 Fù Yuèfēn
ラテン字 Fu Yüe-fen
和名表記: ふ がくふん
発音転記: フー ユエフェン
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傅 嶽棻(ふ がくふん)は清末民初の政治家・詩人。北京政府の要人。治薌。号は娟浄

事跡

光緒年間に挙人となる。山西巡撫署文案に任じられた。1904年光緒30年)以降、山西大学堂教務長、同代理総監督、京師学部総務司司長、同普通司司長などを歴任した。

中華民国成立後の1912年民国元年)、傅嶽棻は北京政府で国務院銓叙局検事に任命される。1919年(民国8年)6月、署理教育部次長(正式就任は同年12月)となった。あわせて銭能訓内閣で代理教育総長となる。続く、龔心湛臨時内閣、靳雲鵬内閣、薩鎮氷臨時内閣でも同じ地位にあった。1920年(民国9年)8月、辞任した。

その後は、中国学院教授、河北大学教授兼系主任、北京大学教授、北京師範大学教授を歴任した。また、雑誌『湖北文徴』の編修にも関わり、詩人として詩文集も遺している。

1951年、死去。享年74。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
袁希濤
教育総長(代理)
1919年6月 - 1920年8月
次代
范源濂